キルワの興亡とは? わかりやすく解説

キルワの興亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 10:02 UTC 版)

スワヒリ文化」の記事における「キルワの興亡」の解説

13世紀までに、マフダリ家 (Mahdali) の支配の下で、キルワ東アフリカ沿岸部最大の都市となり、その影響力はモザンビークにまで及んだ1331年、この島を訪れたイブン・バットゥータは「キルワ世界でいちばん美し整然と建てられた町の一つである。町じゅう造りが上品である。屋根マングローブささえている。がたいへん多い。住民宗教戦争いそがしい」と書き記している。繁栄の礎は前の時代から変わらずアフリカ商品搬出であった16世紀記された『キルワ王国年代記』によると、キルワ王国由来は、10世紀半ばシーラーズ(今のイラン)のスルタン息子アリ・ビン・フセインAli bin Husainが漂着したことに始まるという。キルワ島はMrimbaという人物によって統治されていたが、シーラーズ人は贈り物彼に送り、また現地イスラム教徒の娘を娶り、土地根付いたこのようなシラジ人と現地住民との結びつきによって、スワヒリ交易都市誕生説明するシラジ伝説」はスワヒリ海洋世界広く流布している。富永によればザンジバルにもシラジ人の子孫というコミュニティがあり、ペルシャ起源とされるナイルージと呼ばれる新年祭が今でも盛大に行われている。 12世紀半からキルワ王国は、ソファラから輸出されるグレートジンバブエ産の金のアラブ・ペルシャ地域への中継港として発展した。これは10世紀中頃スーダンの金産出減少し代替として新たな東アフリカ産の金が必要になったからだという。 キルワ王国では13世紀後半イエメンと縁の深いマフダリ家のAl-Hasan bin Talutが18代目スルタンとなるとスワヒリ世界におけるキルワ王国位置一段と強くなった。14世紀前半21代目スルタンAl-Hasan bin Sulaiman統治時代最盛期で、スワヒリ海岸世界で初の金貨鋳造した1498年ヴァスコ・ダ・ガマスワヒリ海岸部に現れポルトガル勢力インド洋海域世界へ進出始まったスワヒリ交易都市の南に位置していたキルワ王国1505年フランシスコ・デ・アルメイダによって占領された。金の搬出ソファラポルトガル占領されキルワ王国は、金の交易ネットワークから外され没落した

※この「キルワの興亡」の解説は、「スワヒリ文化」の解説の一部です。
「キルワの興亡」を含む「スワヒリ文化」の記事については、「スワヒリ文化」の概要を参照ください。

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