キルワ島 (タンザニア)
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キルワ島(スワヒリ語: Kilwa Kisiwani)は、インド洋上に浮かぶタンザニアの島。リンディ州キルワ県に属する。面積は約14km2、1988年当時の人口は約2,000人[1]。キルワ・キヴィンジェの南29kmに位置し[1]、対岸のキルワ・マソコの町とは4km離れている[2]。
- ^ a b c d e 加藤「キルワ島」『世界地名大事典』3、324頁
- ^ a b 栗田、根本『タンザニアを知るための60章』、274-276頁
- ^ a b c d 中村「キルワ島の海環境とキルワ王国」『比較人文学研究年報』4巻、50頁
- ^ 富永『スワヒリ都市の盛衰』、21頁
- ^ a b c 中村「キルワ島の海環境とキルワ王国」『比較人文学研究年報』4巻、52頁
- ^ 中村「キルワ島の海環境とキルワ王国」『比較人文学研究年報』4巻、51頁
- ^ 中村「キルワ島の海環境とキルワ王国」『比較人文学研究年報』4巻、50-51頁
- ^ “Rufiji-Mafia-Kilwa Marine Ramsar Site | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2004年10月29日). 2023年4月9日閲覧。
- ^ “Tanzania Awarded a New Man and Biosphere Reserve - RUMAKI” (英語). www.wwf.or.tz (2023年6月14日). 2023年6月23日閲覧。
- ^ a b c d e 日野「キルワ島」『アフリカを知る事典』新版、138頁
- ^ a b c d e f g 『ユネスコ世界遺産 12(中央・南アフリカ)』、182頁
- ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、220頁
- ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、146,225頁
- ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、224頁
- 1 キルワ島 (タンザニア)とは
- 2 キルワ島 (タンザニア)の概要
- 3 参考文献
キルワ・キシワニ
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「キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群」の記事における「キルワ・キシワニ」の解説
キルワ・キシワニ島は東アフリカ(現タンザニア領内)沖に浮かぶ島で、イスラム教徒のコミュニティが今もある。 9世紀に、この島は商人アリ・ビン・アル=ハサン (Ali bin Al-Hasan) に売り渡され、以降の数世紀にわたり、交易の拠点たる大都市として成長を遂げた。取引されていたのは、ジンバブエからの黄金や鉄、タンザニアからの象牙や奴隷、アジアからの繊維、宝石、陶磁器、香辛料などだった。 13世紀までに、マフダリ家 (Mahdali) の支配の下で、キルワは東アフリカ沿岸部最大の都市となり、その影響力はモザンビークにまで及んだ。イブン=バットゥータは1330年頃にこの島を訪れたことに関連し、統治者 Sultan al-Hasan ibn Sulaiman の謙譲と篤信の精神を高く評価している。この時期よりあとに、フスニ・クブワ宮殿 (Palace of Husuni Kubwa) の建造や、キルワの大モスク (Great Mosque of Kilwa) の拡張が行われた。 16世紀初頭に、ヴァスコ・ダ・ガマがこの優れた国から貢物を受け取ったが、それからほどなくしてポルトガルが支配下に置いた(1505年)。1512年まではポルトガルの手にあったが、その年にアラブ商人たちに奪還された。都市は幾許かの栄光を取り戻しはしたが、1784年にはザンジバル島に入植していたオマーンの支配を受けた。その後、フランスがキルワの島北端に要塞を築いたが、島自体も1840年に打ち棄てられた。1886年から1918年の間はドイツ領東アフリカの一部とされたが、本格的な考古学調査は1950年代に始まった。 特筆すべき廃墟は大モスク跡やムクティニ宮殿 (Mkutini Palace) 跡などである。
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