文化・歴史
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四川盆地 成都市 四川省における位置 盆地内には重慶や成都などのような大都市が多く、中国でも人口の稠密な地域である。また四川盆地は、黄河流域や長江下流との関わりを持ちつつ、地理的に隔絶された中で独特の文化圏を構成してきた。古代には長江文明や巴蜀文化などが繁栄し、秦に滅ぼされるまで東部の重慶付近に巴国が、西部の成都付近に蜀国が成立した。また現在に至るまで独自の生活習慣や食文化(四川料理)などを育んでいる。盆地の西部にある山岳地帯では漢民族が支配する前から先住民族が茶を栽培しており、世界の茶文化の発祥の地である。 一方、要害の地であることから独自の政権が盆地内に成立することも度々であった。三国時代、四川盆地を拠点に蜀漢が成立し、長江下流の呉や黄河沿いの魏と対峙した。五胡十六国時代には成漢・後蜀が晋の支配を、五代十国時代には前蜀・後蜀が中原支配を脱し、四川盆地を中心に独自の政権を樹立している。1001年(咸平4年)、北宋は成都府路・梓州路・夔州路・利州路(かつての漢中、現在は陝西省)の4地方を統合して四川路を設置、これより現在までこの地を四川と称する。四川省は明末清初の農民反乱軍の首領・張献忠によりその拠点となったが、戦乱により明後期に300万を超えた人口が清初期にはわずか数万にまで激減したとされる。人口を再び回復させるため、清前半には600万人以上が湖北・湖南・広東省から移民させられた(湖広填四川)。 周囲を山に隔たれた盆地の中は物産が豊富で、独立した経済圏と文化圏を形成しているため、盆地の中で自己完結し盆地の外を過小評価する自足・自満・自大などの意識が形成されたとされる。またアイデンティティや自我意識が他地域よりも強く「川人治川」(四川は四川人が治める)という志向や独立志向が強いともされる。近代の四川では粤漢鉄道をめぐる保路運動や自治運動など中国を揺り動かす政治運動が数多く起こった。日中戦争などの国難に当たっては愛国意識を爆発させる一方、普段は反中央の独立心が強い。
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文化・歴史
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絹、焼畑農業、陸稲の栽培、歌垣、納豆、モチ食、麹酒などが知られる。カチン州記念日のある1月にはカチン族最大の祭りであるマナウ祭り (Manau) がミッチーナーのマナウ広場 (Kachin National Manau Park) で開催される。
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文化・歴史
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山頂には1万2000個もの経文を書いた石が埋められていると言われる経塚がある。 南側の山頂直下には、飯能の国衆中山氏の一族で、江戸幕府の寺社奉行、老中を勤めた大名・黒田直邦の墓がある。また直径20mほどの雨乞い池があり、かつては雨乞いが行われていた。鼻をつまみ息を止めて池を7周すると、池の中に変異が現れるという伝承もある。 南側への登山道には、中腹に御嶽八幡神社がある。 東南方向への坂は「見返り坂」と呼ばれ、源義経の母・常盤御前が、あまりの景色の良さに振り返りながら上ったとされる。常盤が丘と呼ばれる丘には、常盤御前の墓と伝えられる、宝篋印塔が存在している。 見返り坂の付近では、牧野富太郎博士により新種のササが発見され、当地の名前をとって「ハンノウザサ(飯能笹)」と名付けられた。1941年に自生地は埼玉県指定天然記念物になり、現在も保護されている。現在、ハンノウザサはアズマザサ(Sasaella ramosa)と同一種とされている。アズマザサ属は、ササ属とメダケ属との雑種の属と言われ、ハンノウザサの雌親は周辺に自生していないミヤコザサであるという研究成果もある。 飯能が舞台の『ヤマノススメ』では、富士山の登山に失敗したあおいが、天覧山で偶然会った親友のひなたと一緒に多峰主山へ登り、再び山への熱意を取り戻すきっかけになる登山をしている。
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文化・歴史
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町の歴史的な場所には1301年から1806年にかけて建築された中央部のロマネスクゴシック様式の大聖堂である聖マルコ大聖堂、15世紀のフランシスコ会修道院とヴェネチアンゴシックの回廊、市民会議場、前支配者であるヴェネツィアの行政官宮殿、15世紀、16世紀の地元の商人貴族の館や城壁などがある。コルチュラには敬虔なカトリック教徒の住民が古くからの教会の祭式や武術舞踊を守っている。モレシュカ(Moreška)は中世に遡る武術舞踊で、本来は特別な行事の時に行われるが現代では週二回、観光用に公開されている。コルチュラは1214年に奴隷制を禁止する法令が出された町で、世界で最初に非合法化された場所である 。 コルチュラは他のダルマチアの島々やドゥブロヴニクなどのアドリア海沿岸の都市と同じように、ラテンとスラヴの二つの文化が融合しローマ時代後期より開かれ始め、現代のクロアチアに至っている。19世紀後半まで他の島がクロアチア人で占める間でもイタリア系の住民が大多数をコルチュラでは占めており、ダルマチアの山岳部やクロアチア本土とは異なったアドリア海や地中海の文化を備えていた。第一次世界大戦後は、オーストリア・ハンガリー帝国からユーゴスラビアに編入された。
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文化・歴史
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この地域はインド洋に面し、沿岸部(スワヒリ海岸と呼ばれる)は、モガディシュ、キルワ、マリンディなどの都市がインド洋のイスラム商人の交易で繁栄したことからイスラム教が広く浸透している。また、共通語はスワヒリ語である。内陸部でも特に北部は、アクスム王国のあったエチオピアがコプト正教会の伝統を受け継いでいる。 歴史的な文化圏としては、モノモタパ王国、ロズウィ王国(英語版)があったジンバブエまで含まれ得るが、実際には、モザンビークを含むか含まないかの地理的な区分となっている。 また、20世紀までにアフリカ東部沿岸地域に成立した植民地の名称が「東アフリカ」とされ、支配国にとっての「東アフリカ」はこれらの地域を指していた。 ポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク) イギリス領東アフリカ(イギリス領ケニアを経て、現ケニア) ドイツ領東アフリカ(現タンザニア、ルワンダ、ブルンジ) イタリア領東アフリカ(現エチオピア、エリトリア、ソマリア) 第一次世界大戦の結果ドイツ領東アフリカの大半はイギリス委任統治領タンガニーカとなり、傍らで現ルワンダ、ブルンジの地域はベルギー委任統治領ルアンダ=ウルンディとなる。その後1922年にイギリスの支配する3地域(ウガンダ、ケニア、タンガニーカ)に共通通貨東アフリカ・シリング(英語版)が導入された。 この3地域に結ばれた関税同盟が独立後に引き継がれ、東アフリカを東アフリカ連邦(英語版)に統合する構想を掲げるタンザニアのジュリウス・ニエレレの後押しもあって、1967年にウガンダ、ケニア、タンザニアによってタンザニアのアルーシャを本部とする東アフリカ共同体(第一次)となるが、国家間の対立により1977年に崩壊する。 現在、通貨統合も含めて政治的・経済的統合が検討されている現代版の「東アフリカ共同体」(第二次)が進行中であり、ウガンダ、ケニア、タンザニアの3国がアルーシャへ本部を再設置させて2001年に発足させ、2007年からはルワンダとブルンジの2国が参加した。
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文化、歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 15:44 UTC 版)
ダイラムには、「カドホダー」によって支配される家父長制的・閉鎖的社会が存在していた。痩せ型の体型、柔らかい頭髪、好戦的な性格がダイラム人の特徴として挙げられている。ダイラム人が使用した言語はイラン語群に属すると考えられている。ダイラムでは女性も農業に従事し、牧羊も営まれていた。住民は平野部の小都市で農産物を販売し、生活用品を購入して生計を立てていた。 山岳地帯に居住するダイラム人は剣、長楯、投槍(ゾピーン)を使った歩兵戦に長け、サーサーン朝時代から精悍な傭兵として知られていた。派手な色の盾を掲げて突撃をかける姿は城壁に例えられ、先端に石油を入れた筒を付けたゾピーンに火を点けて敵に投げつける戦法を得意としていた。ガズナ朝、ファーティマ朝でもダイラム人兵士は、セルジューク朝の宰相ニザームルムルクは『政治の書』でダイラム人をトルコ人とともに軍隊に加えることを推奨した。11世紀にエジプトで活躍したネストリウス派キリスト教徒のイブン・ブトラーンは自著の奴隷購入の手引書でダイラム人男性の外見と内面の両方を高く評価したが、女性の性質には低い評価を下した。険阻な地形のダイラムはアラブの征服時代にもイスラーム化せず、正統カリフ・ウマルからアッバース朝のマアムーンの時代にかけて17回におよぶダイラム遠征が実施されたが、遠征軍は頑強な抵抗にあった。 アラムート城(英語版)を建設したジュスターン家は、9世紀にカスピ海沿岸部に建国されたザイド派のアリー朝を支持する。アリー朝の成立に伴ってダイラムのイスラーム化・シーア派化が進展し、ペルシャ中央世界でのダイラム軍閥の影響力が増加した。10世紀にブワイフ家によって、ブワイフ朝が建国される。ブワイフ朝の軍隊はダイラム人の歩兵隊とトルコ人の騎兵隊で構成されていたが、ブワイフ朝の君主は同じ民族のダイラム人に不信感を抱き、ダイラム人のイクター(封土)を没収してトルコ人を優遇した。トルコ人の優遇政策にダイラム人は不満を覚え、10世紀末にはアフワーズでダイラム人とトルコ人の武力衝突が発生する。 ブワイフ朝の滅亡後、ダイラム軍閥はギーラーンのキヤー家などの傭兵集団のみが残った。11世紀末、ダイラム人が拠るアラムートはニザール派の攻撃によって陥落する。ダイラム人の中にはニザール派のフィダーイーとなって暗殺に従事した者も多くいた。
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