文化・歴史的背景とは? わかりやすく解説

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文化・歴史的背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:55 UTC 版)

男の娘」の記事における「文化・歴史的背景」の解説

女装#歴史」および「少年愛#日本における歴史と概説」も参照 ユダヤ・キリスト教文化圏から日本訪れる人が、テレビ番組のオネエタレントを見て驚くというのはよくあった話のようである。旧約聖書には「女は男の着物着てならない。また男は女の着物着てならない」(申命記22章5節)と記されている。百年戦争英雄ジャンヌ・ダルク異端審問火刑処せられたが、神の教え背いたとされた決定的な理由は、彼女の男であった旧約聖書にはまた、男性同性愛行った者は「必ず殺されなければならない」(レビ記20章13節)とも書かれているフランスには1726年3月男性同性愛者死刑になった記録残っている。一方日本の神道・仏教には旧約聖書のような規範存在しない日本における「女装した少年」の起源遡ると、『古事記』『日本書紀』ヤマトタケルにたどり着くことは複数専門家指摘している。ヤマトタケル叔母から贈られた「御衣御裳(みそみも)」を身に着け童女(おとめ)」の姿になり、油断した熊襲兄弟宴席に討つ。神道では、女装をともなう祭礼が、横浜市戸塚区八坂神社の「お札撒き」・甲斐市竜王三社神社の「おみゆきさん」など、現代各地残っている。 女人禁制仏教界は、男性同性愛文化温床であった。また女装芸能発祥の場所でもあった。日本中世寺院社会では稚児呼ばれた女装少年僧侶男色対象とされていて、儀式の場では延年などの芸能披露していた(その模倣白拍子である)。やがて、猿楽田楽延年などを源流とし、性別越境特徴とする能や、阿国歌舞伎生まれる。江戸幕府により女性歌舞伎に出ることを禁じられる若衆歌舞伎始まり、さらに近世歌舞伎女形発生していく。歌舞伎の世界で、端役さえ与えられ舞台に立つ機会のない者を「陰子」と呼んだ陰子は生活のために茶屋接客業従事するようになった考えられ茶屋色を売る女装少年を「陰間」と総称するようになったフランスなどとは対照的に18世紀日本では陰間接客する陰間茶屋繁盛していた。曲亭馬琴南総里見八犬伝』は1814年の初集刊行から1842年完結まで28年をかけた長編伝奇小説である。里見家復興のため活躍する八犬士のうち2人女装しており、特に犬坂毛野八犬士随一人気集めた三橋は、これは馬琴江戸庶民嗜好合わせた側面もあったと推測している。 キリスト教規範影響の下、性別越境者対す差別強まったのは明治維新から文明開化期(1870年 - 1880年代)以降のことである。一時期異性装法令禁止されていた。 男ニシテ.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}女粧(おんななり)シ、女ニシテ男粧(おとこなり)シ、或ハ奇怪粉飾ヲ為テ醜体ヲ露ス者。但、俳優歌舞伎等ハ勿論、女ノ着袴スル類、此限ニ非ズ。 — 1873年明治6年8月12日司法省布達罰金10銭。 西洋精神医学異性装文化影響与えた1886年ドイツ精神科医クラフト=エビングが『性的精神病質』を著し日本にも紹介されると、これが元となった通俗性欲学が大正から昭和初期1910年 - 1920年代)にかけて広まっていく。それによれば、「女性的男子」は変態性欲という精神病小分類のひとつであり、その「最も好むところのものは、女装為すこと」であった日本人はこの時期女装不健全なものとい印象刷り込まれのである第二次世界大戦後性別越境文化抑圧から解放される終戦間もない時期には女装した男娼街頭に立ち、1950年代には美輪明宏端を発したゲイ・ブーム到来するゲイバー世界は、男性同性愛者女装者混在していたものだったが(「女装子」という言葉蔑称として生まれたのはこの時期である)、1960年代から1970年代にかけて住み分け進んでいき、1980年代にはニューハーフブームが訪れる。いわゆる素人女装活発になり、エリザベス会館などの女装クラブが賑わうようになった稚児陰間など、女装重視する伝統的な文化は、現代でも、新宿六本木のニューハーフ・パブ、新宿歌舞伎町周辺女装コミュニティなどに引き継がれている(対して、主に新宿二丁目周辺の、女装を必要としないゲイコミュニティ汲んでいるものは衆道流れである)。 三橋は、三次元の男の娘」もこうした性別越境文化伝統連なるものであり、現代特異現象などではないと主張している。一方、あしやま・田中漫画家の魔北らは、「男の娘」の流行にはコスプレという側面があったことを指摘している。佐伯は、三次元の男の娘」は、アニメ少女漫画といったポップカルチャー強く結びついたまった新しい女現象であると断じており、性別越境の手ではなくコスプレ一種であったことが、江戸時代以前社会的寛容への接続可能にしたと考察している。樋口は、二次元の「男の娘」について次のように論じている。キリスト教の影響下で、少女の美が次第特権化されていった際、男性セクシュアリティ少女対する「所有欲望」として成立した。ところが1990年代百合ブーム経てオタク男性たちは少女性的な視線で見る自分たちの男性性嫌気差し少女に「なりたい」という「憧憬欲望」を持つに至ったオタク文化における「男の娘」は、少女に「なりたい」という憧れ現実化していく過程とみなせ、あくまで異性愛にもとづくものである——。 いずれの観点でもインターネット重要な役割果たしたとされている。「プロパガンダ」を主宰2015年時点)していた西原さつきは、インターネットの普及により女装に関する情報簡単に入手できるようになり、SNSなど仲間交流しやすくなっていたことに加え、「男の娘」という言葉登場もあり、女装ポジティブカジュアルなものに変わった述べている。井戸も、若者女装方法インターネット学べようになったことが大きいとし、SNS動画配信などが承認欲求満足させる装置として機能した述べている。 いままで情報がなくて、メイクのしかたひととってもわからなかった。女装しようと思っても、初めてやるときはすごく敷居が高いんです。まずお金がかかるし、女装用品バレないように隠さなきゃいけない。むかしよく言われていたのは、女装趣味というのはひとりの愛人を囲うくらいコストのかかることなんだと。〔……〕いまはインターネット使えればメイクのしかたとかいろいろな情報接することもできるし、ちょっと女装をして写真ネット上げればかわいいと言われるような増幅装置もある。 — 井戸 2015, p. 187マンガ振り返るオトコノコ10年史』(2020年三和出版)は、写真加工アプリ登場と「盛る」文化の興隆がこれに拍車を掛けたとしている。来栖は、三次元の男の娘文化は、インターネット最大特徴であるメディア双方向性相性良かったとしており、また二次元の「男の娘」も、その成立にはインターネット必要不可欠であった述べている。三橋は、最大要因インターネットであったとしている。 そのほかには、市販化粧品の品質向上したことも、三次元の流行大きな一因となっていた。

※この「文化・歴史的背景」の解説は、「男の娘」の解説の一部です。
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