文化・歴史的背景
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「女装#歴史」および「少年愛#日本における歴史と概説」も参照 ユダヤ・キリスト教文化圏から日本を訪れる人が、テレビ番組のオネエタレントを見て驚くというのはよくあった話のようである。旧約聖書には「女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない」(申命記22章5節)と記されている。百年戦争の英雄、ジャンヌ・ダルクは異端審問で火刑に処せられたが、神の教えに背いたとされた決定的な理由は、彼女の男装であった。旧約聖書にはまた、男性同性愛を行った者は「必ず殺されなければならない」(レビ記20章13節)とも書かれている。フランスには1726年3月に男性同性愛者が死刑になった記録が残っている。一方、日本の神道・仏教には旧約聖書のような規範が存在しない。 日本における「女装した少年」の起源を遡ると、『古事記』『日本書紀』のヤマトタケルにたどり着くことは複数の専門家が指摘している。ヤマトタケルは叔母から贈られた「御衣御裳(みそみも)」を身に着け「童女(おとめ)」の姿になり、油断した熊襲兄弟を宴席に討つ。神道では、女装をともなう祭礼が、横浜市戸塚区八坂神社の「お札撒き」・甲斐市竜王三社神社の「おみゆきさん」など、現代各地に残っている。 女人禁制の仏教界は、男性同性愛文化の温床であった。また女装芸能の発祥の場所でもあった。日本の中世寺院社会では稚児と呼ばれた女装の少年が僧侶の男色の対象とされていて、儀式の場では延年などの芸能を披露していた(その模倣が白拍子である)。やがて、猿楽・田楽・延年などを源流とし、性別越境を特徴とする能や、阿国歌舞伎が生まれる。江戸幕府により女性が歌舞伎に出ることを禁じられると若衆歌舞伎が始まり、さらに近世歌舞伎の女形が発生していく。歌舞伎の世界で、端役さえ与えられず舞台に立つ機会のない者を「陰子」と呼んだ。陰子は生活のために茶屋で接客業に従事するようになったと考えられ、茶屋で色を売る女装の少年を「陰間」と総称するようになった。フランスなどとは対照的に、18世紀の日本では陰間が接客する陰間茶屋が繁盛していた。曲亭馬琴『南総里見八犬伝』は1814年の初集刊行から1842年の完結まで28年をかけた長編伝奇小説である。里見家復興のため活躍する八犬士のうち2人は女装しており、特に犬坂毛野は八犬士中随一の人気を集めた。三橋は、これは馬琴が江戸庶民の嗜好に合わせた側面もあったと推測している。 キリスト教規範の影響の下、性別越境者に対する差別が強まったのは明治維新から文明開化期(1870年 - 1880年代)以降のことである。一時期、異性装は法令で禁止されていた。 男ニシテ.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}女粧(おんななり)シ、女ニシテ男粧(おとこなり)シ、或ハ奇怪ノ粉飾ヲ為テ醜体ヲ露ス者。但、俳優、歌舞伎等ハ勿論、女ノ着袴スル類、此限ニ非ズ。 — 1873年〈明治6年〉8月12日司法省布達。罰金10銭。 西洋の精神医学も異性装の文化に影響を与えた。1886年にドイツの精神科医クラフト=エビングが『性的精神病質』を著し、日本にも紹介されると、これが元となった通俗性欲学が大正から昭和初期(1910年 - 1920年代)にかけて広まっていく。それによれば、「女性的男子」は変態性欲という精神病の小分類のひとつであり、その「最も好むところのものは、女装を為すこと」であった。日本人はこの時期に女装は不健全なものという印象を刷り込まれたのである。 第二次世界大戦後、性別越境の文化は抑圧から解放される。終戦間もない時期には女装した男娼が街頭に立ち、1950年代には美輪明宏に端を発したゲイ・ブームが到来する。ゲイバー世界は、男性同性愛者と女装者が混在していたものだったが(「女装子」という言葉が蔑称として生まれたのはこの時期である)、1960年代から1970年代にかけて住み分けが進んでいき、1980年代にはニューハーフブームが訪れる。いわゆる素人女装も活発になり、エリザベス会館などの女装クラブが賑わうようになった。稚児や陰間など、女装を重視する伝統的な文化は、現代でも、新宿や六本木のニューハーフ・パブ、新宿歌舞伎町周辺の女装コミュニティなどに引き継がれている(対して、主に新宿二丁目周辺の、女装を必要としないゲイのコミュニティが汲んでいるものは衆道の流れである)。 三橋は、三次元の「男の娘」もこうした性別越境文化の伝統に連なるものであり、現代の特異現象などではないと主張している。一方、あしやま・田中、漫画家の魔北葵らは、「男の娘」の流行にはコスプレという側面があったことを指摘している。佐伯は、三次元の「男の娘」は、アニメ・少女漫画といったポップカルチャーと強く結びついたまったく新しい女装現象であると断じており、性別越境の手段ではなくコスプレの一種であったことが、江戸時代以前の社会的寛容への接続を可能にしたと考察している。樋口は、二次元の「男の娘」について次のように論じている。キリスト教の影響下で、少女の美が次第に特権化されていった際、男性のセクシュアリティは少女に対する「所有の欲望」として成立した。ところが1990年代の百合ブームを経て、オタク男性たちは少女を性的な視線で見る自分たちの男性性に嫌気が差し、少女に「なりたい」という「憧憬の欲望」を持つに至った。オタク文化における「男の娘」は、少女に「なりたい」という憧れが現実化していく過程とみなせ、あくまで異性愛にもとづくものである——。 いずれの観点でもインターネットは重要な役割を果たしたとされている。「プロパガンダ」を主宰(2015年時点)していた西原さつきは、インターネットの普及により女装に関する情報が簡単に入手できるようになり、SNSなどで仲間と交流しやすくなっていたことに加え、「男の娘」という言葉の登場もあり、女装がポジティブでカジュアルなものに変わったと述べている。井戸も、若者が女装の方法をインターネットで学べるようになったことが大きいとし、SNSや動画配信などが承認欲求を満足させる装置として機能したと述べている。 いままでは情報がなくて、メイクのしかたひとつとってもわからなかった。女装しようと思っても、初めてやるときはすごく敷居が高いんです。まずお金がかかるし、女装用品をバレないように隠さなきゃいけない。むかしよく言われていたのは、女装趣味というのはひとりの愛人を囲うくらいコストのかかることなんだと。〔……〕いまはインターネットが使えればメイクのしかたとかいろいろな情報に接することもできるし、ちょっと女装をして写真をネットに上げればかわいいと言われるような増幅装置もある。 — 井戸 2015, p. 187 『マンガで振り返るオトコノコ10年史』(2020年、三和出版)は、写真加工アプリの登場と「盛る」文化の興隆がこれに拍車を掛けたとしている。来栖は、三次元の「男の娘」文化は、インターネットの最大の特徴であるメディアの双方向性と相性が良かったとしており、また二次元の「男の娘」も、その成立にはインターネットが必要不可欠であったと述べている。三橋は、最大の要因はインターネットであったとしている。 そのほかには、市販化粧品の品質が向上したことも、三次元の流行の大きな一因となっていた。
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