帝国の保護国化と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 13:37 UTC 版)
「シャー・アーラム2世」の記事における「帝国の保護国化と死」の解説
その後、イギリス軍の司令官ジェラルド・レイクはデリー城に入城し、9月14日にシャー・アーラム2世に謁見した。ジェラルド・レイクの部下はこの時の状況を記述し、レイクの報告書を受け取ったリチャード・ウェルズリーはそれに自身の言葉を付け加え、物語風にして書き綴った。。その内容は次のようなものだった。 「 「ついに司令官(ジェラルド・レイク)は王座の前へと導かれた。そこには不幸な運命を味わった神々しい皇帝(シャー・アーラム2世)が、老いの身に積み重なった悲運で疲れ果て、権威もなければ富もない状態で、しかも視力を失って、ぼろぼろになった小さな天蓋の下で(略)、静かに座っていた。(略)アウラングゼーブの曾孫(アーラムギール2世)の息子、アクバル大王の直系の子孫である皇帝はご機嫌であった」 」 その後、同年12月30日にシンディア家とイギリスと間に講和条約スールジー・アンジャンガーオン条約が結ばれ、シンディア家がデリー、アーグラなどの地域を割譲するとともに、再びイギリスがムガル帝国の後見人となり、皇帝は再び完全に年金生活者化させられた。こうして、1707年のアウラングゼーブの死後、1世紀にわたり続いたムガル帝国の動乱は遂に事実上収束するにいたった。 その後、1804年10月8日から19日にかけて、第二次マラーター戦争のさなかにホールカル家の軍がデリーを包囲した(デリー包囲戦)。だが、これはイギリスの駐在軍に向けられたものであり、むしろ皇帝をイギリスから解放するためのものでもあった。 その後、1805年5月23日、ムガル帝国とイギリスとの間に条約が結ばれ、デリー周辺の地域の税収入と月額9万ルピーが支払われることとなった。 そして、1806年11月10日にシャー・アーラム2世は帝都デリーで死亡し、その長い治世を終えた。帝位は息子のアクバル2世が継承した。
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