帝国におけるゲニウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 03:43 UTC 版)
オクタウィアヌスはアクティウムの海戦でローマ内戦に終止符を打ち、ローマに凱旋すると、偉大な権力と成功という明らかな神性の印をまとって元老院に現れた。その天才を認めた元老院は、全ての宴会で彼のゲニウスに献酒することを議決した。このとき彼はアウグストゥスに改名した。この考え方を背景にして、紀元前30年にその家族のゲニウスだったゲニウス・アウグスティ (Genius Augusti) を神格化することが議決された。それは、他の家庭の神と共に食事の度になだめられた。この議決が皇帝崇拝の伝統の始まりである。しかし、その神性は地位に対するものとなり、皇帝個人に対するものではなくなっていった。ローマ皇帝たちは、個人としては不滅でもないし神でもないという十分な証拠を与えた。 インペラトルのゲニウスをなだめることで、配下の全軍団が皇帝の命に従うとされた。各地方の軍団にもこの考え方を拡大して適用し、属州のゲニウスという考え方が生まれた。例えば、ブリタンニアではローマのゲニウスやブリタンニアのゲニウスの祭壇が設けられ、さらにブリンタンニア内の軍団、コホルス、アラ、ケントゥリアに対応したゲニウス、カストラ(要塞)毎のプラエトリウム(宿舎)や軍団旗にまでゲニウスが考案され祭られた。ゲニウスは軍だけのものではなかった。ガリア・キサルピナでは、多数の権威ある人や尊敬される人のゲニウスを生み出した。皇帝のゲニウス・ピリンキピス (genius principis) に加えて、解放奴隷の後援者のゲニウス、奴隷の所有者のゲニウス、ギルド後援者のゲニウス、慈善家のゲニウス、役人のゲニウス、親族のゲニウス、友人のゲニウスなどである。時には献呈の辞で他の言葉と組み合わせて「ゲニウスと名誉に」としたり、1対として「ゲニウスとユーノーに」としたりした。 帝国期の現存する数百の献納や奉納や墓碑銘から、ゲニウス信仰が存在した範囲がわかる。決まり文句には次のような省略形があった。GPRは genio populi Romani(ローマ市民のゲニウス)、GHLは genio huius loci(この場所のゲニウス)、GDNは genio domini nostri(我々の主人のゲニウス)などである。テオドシウス1世はキリスト教を国教とし、紀元392年にゲニウスとラレースとペナーテースを信仰したら反逆とみなすという法律を制定し、公式にはこれらの信仰は行われなくなった。ゲニウスの概念は、天使や精霊など異なる名前で様々な修正を加えられて生き残っていった。
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