帝国の中央集権化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 21:13 UTC 版)
イスタンブールの宮廷を頂点とする軍事・行政の体制はメフメト2世の時代から形作られていき、統治の規則は『カーヌーン・ナーメ(法令)』に成文化された。また、『カーヌーン・ナーメ』には征服地の法律も組み入れられていた。 1453年のコンスタンティノープル包囲における、メフメトの側近で構成される主戦派と旧勢力に代表される反戦派の対立は、オスマン宮廷の君臣間の関係を変容させる契機となった。オスマン帝国は征服地を一族間で分割する遊牧民国家の慣習を克服し、中央集権化によって国家の永続性が保障された。メフメトは初期のオスマン帝国で活躍したガーズィー(トルコ系の信仰の戦士)やアナトリア出身のトルコ系貴族を政界の中心から遠ざけ、代わってバルカン半島から徴収したカプクル(宮廷奴隷)出身の軍人・官僚を重用した。奴隷として徴収した少年を養育するための教育制度を整備し、宮殿の近辺に彼らのための学校が設置された。しかし、新たに台頭したカプクルと旧勢力の間に激しい抗争が起きる。 君臣関係の変化に伴い、古くからの宮廷の慣習は次第に廃れていき、代わりに君主の行動に儀礼的な要素が付加されていく。メフメトは宮廷の空気を従前の遊牧民族的な雰囲気から、東ローマ的な権威ある雰囲気に変えようと試みている。晩年にはスルタンが主催する御前会議のしきたりを改め、スルタンは後ろの部屋から会議を閲覧するようになった。また、スルタンが大臣たちと一緒に食事を摂る慣習も改め、別の部屋で食事を摂るようになる。
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