帝国との融合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:49 UTC 版)
「ロシア帝国下のグルジア」の記事における「帝国との融合」の解説
ロシア統治の初期にはグルジアが対ペルシアとオスマン戦争の最前線だったために軍政が敷かれ、当地のロシア軍の指揮官がグルジア総督を兼任した。ロシアはオスマン帝国やペルシアの南カフカース領を徐々に侵食して、1826年から1828年までのロシア・ペルシャ戦争でガージャール朝ペルシアに再び勝利してトルコマーンチャーイ条約で現在のアルメニアとアゼルバイジャンにあたる広大な土地を奪取した。ロシア政府は同時期にグルジアを帝国のほかの領土と融合しようとした。というのも、ロシアとグルジアの社会には共通点が多く、例えば宗教は両方とも正教会が支配的で、社会の構造は両方とも土地所有者が大勢の農奴を支配していた。ロシア統治の初期、政府はグルジアの現地法や慣習に無頓着で、強引な政策をとっていた。1811年、グルジア正教会の独立正教会の地位が廃止され、グルジア総主教のアントン2世(英語版)はロシアに追放された。これにより、グルジアはロシア正教会のエクザルフ教区になった。 ロシアの統治に多くのグルジア貴族が疎外されたため、若い貴族の一部は1832年グルジア陰謀(英語版)を計画してロシアの統治を終わらせようとした。この陰謀は1825年にサンクトペテルブルクでおこったデカブリストの乱と1830年にポーランドでおこった反ロシアの11月蜂起の影響を受けていた。計画は「グルジアに駐在するロシア官僚を全て舞踏会に招き、そこで彼らを皆殺しにする」という簡単なものであったが、1832年12月10日に陰謀が露見し、陰謀に関与した者の多くがロシア国内のほかの地域に追放された。続いて1841年にはグリアで農民と貴族の反乱がおこった(英語版)。1845年にミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフがカフカース副王(英語版)に任命されると、状況は改善した。ヴォロンツォフはロシア貴族が18世紀に行った改革を倣って、グルジアに西ヨーロッパの慣習を取り入れたため、グルジア貴族の心を上手くつかんだ。
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