帝国からの独立とニザーム王国の創始
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「カマルッディーン・ハーン」の記事における「帝国からの独立とニザーム王国の創始」の解説
だが、カマルッディーン・ハーンはムハンマド・シャーの堕落や側近のいさかいに次第に愛想を尽かすようになっていき、彼が行おうとした国政の改革もくだらない対立のために頓挫した。そのため、ついには帝国をその衰運に任せ、自身は別の道を切り開く、つまり新たな国家の樹立を考えるようになった。 そして、1723年10月にカマルッディーン・ハーンは宰相職を辞し、帝国に見切りをつけてデリーを出て、自らの所領があるデカン高原に国家を樹立しようと南へと旅立った。この宰相の独立をある歴史家はこう記している。 「 「彼の出立は、帝国からの忠誠と美徳の遁走を象徴した」 」 1724年10月11日、カマルッディーン・ハーンは所領を目指して南下中、彼に代わってデカン総督となっていたムバーリズ・ハーン率いるムガル帝国軍の攻撃を受けた(シャカル・ケーダーの戦い)。だが、彼は巧妙な戦術でムガル帝国軍を完膚なきまでに打ち破り、ムバーリズ・ハーンを殺害し、これにより彼を始祖とするニザーム王国が創始された。 同年12月7日、カマルッディーン・ハーンはハイダラーバードをニザーム王国の一時的な首都と定め、1725年1月16日にこの都市に入城し、この地域の支配を固めた。そのため、王国の名がこのハイダラーバードの名を冠して、ハイダラーバード王国とも呼ばれることもあった。 結局、ムガル帝国はこの独立を認めざるを得ず、同年6月25日にはカマルッディーン・ハーンを名目的にデカン6州の全体を統括するデカン総督の地位に任命し、この地を事実上放棄することとなった。またこのとき、皇帝ムハンマド・シャーに「アーサフ・ジャー」の称号を贈られ、この称号がニザーム王国の王朝名となり、アーサフ・ジャーヒー朝とも呼ばれるようになった。
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