帝国の内部争いとは? わかりやすく解説

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帝国の内部争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 20:05 UTC 版)

アフマド・シャー (ムガル皇帝)」の記事における「帝国の内部争い」の解説

ムハンマド・シャー死後皇帝アフマド・シャーアワド太守サフダル・ジャング帝国宰相ワズィール)に任じアーサフ・ジャー息子ガーズィー・ウッディーン・ハーン(フィールーズ・ジャング2世)軍務大臣(ミール・バフシー)に任命するなど、順調な出だし歩んだ。 しかし、実際はナワーブ・ジャウド・ハーンという宦官政治主導権握りアフマド・シャーも彼を信用しきっていた。また、アフマド・シャーの母ウドハム・バーイーは彼と長く関係を持っていたので、彼女も政治関与するようになった。さらに、アフマド・シャー自身父帝ムハンマド・シャー似て後宮で遊ぶようになり、歴史家アノンの「アフマド・シャー伝」では「皇帝はゼナーナ(後宮)に閉じこもり、まる1週間とまったく顔を合わさずに過ごすこともあった」とさえ記している。 そうしたなか、1751年12月アフガンアフマド・シャー・ドゥッラーニー北西インド侵攻し1752年帝国パンジャーブ地方カシミール地方奪われた。このようにアフガン軍が侵攻するなか、1750年代サフダル・ジャング中心とするイラン系貴族と、軍務大臣ガーズィー・ウッディーンやナワーブ・ジャウド・ハーンのトルコ系貴族争い起こっていた。 1752年8月サフダル・ジャングはナワーブ・ジャウド・ハーンを暗殺したまた、同年10月にはニザーム王国へと戻ったガーズィー・ウッディーン・ハーン暗殺され自滅するなど、サフダル・ジャング有利な状況となった。 だが、ガーズィー・ウッディーン・ハーン息子ガーズィー・ウッディーン・ハーン(フィールーズ・ジャング3世)は父の官職引き継ぎサフダル・ジャング対抗したサフダル・ジャングトルコ系貴族との争い敗れ1753年5月13日宰相職を辞して帝都デリーからアワド引き上げた

※この「帝国の内部争い」の解説は、「アフマド・シャー (ムガル皇帝)」の解説の一部です。
「帝国の内部争い」を含む「アフマド・シャー (ムガル皇帝)」の記事については、「アフマド・シャー (ムガル皇帝)」の概要を参照ください。

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