リウドルフィング朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 07:49 UTC 版)
「バイエルン公国」の記事における「リウドルフィング朝時代」の解説
バイエルンの統治者になったハインリヒ1世はマジャール人を撃退することに成功し、その上、フリウリ伯(イタリア語版)領を自領へ併合した。955年に名高いレヒフェルトの戦いが起きた。この戦いでドイツ軍はマジャール人を完膚なきまでに叩きのめすことでその脅威を取り除いた。ハインリヒ1世自身は病気のために戦闘に参加しなかったものの954年のシュヴァーベン公リウドルフとロタリンギア公コンラートによる反乱の鎮圧には参加している。 955年にハインリヒ1世の後を息子で未だ4歳であるハインリヒ2世が継いだ。その初期は母のユディトがハインリヒ2世の名でバイエルンを統治した。ハインリヒ2世は成年に達すると973年に皇帝に即位した従兄弟のオットー2世と帝位を巡って争い始めた(父ハインリヒ1世もまた帝位を狙っていた)。皇妃アーデルハイトの姪であるギゼラ(ドイツ語版)と結婚したことでハインリヒ2世の立場は著しく強化された。同年には自身の姉妹と結婚しているシュヴァーベン公ブルヒャルト3世が皇帝の了承抜きに空位となったアウクスブルク司教(ドイツ語版)の座に自身の従兄弟であるハインリヒ1世(ドイツ語版)を据えた。973年にブルヒャルトが死ぬとハインリヒ2世はシュヴァーベンを自領に併合することを試みたが、これに対してオットー2世は自身の友人かつ従兄弟でもあるシュヴァーベン公リウドルフの息子オットー1世にシュヴァーベンを渡すことで機先を制ずることに成功した。これに不満を抱くハインリヒ2世の返答はオットー2世への反乱の企てということになったが、974年に陰謀は露見してインゲルハイムで拘禁されることで収着した。 976年にハインリヒ2世は脱獄してバイエルンに帰還することに成功して同地にて反乱を立ち上げた。976年にローマ軍はバイエルンに侵攻して反乱軍を打ち破り、ハインリヒ2世は亡命を余儀なくされ、バイエルンはオットー1世に与えられた。しかもハインリヒ2世の反乱の結果、バイエルンは分割されることとなった。すなわち、同年にシュタイアーマルクからヴェローナ(ヴェローナ伯(イタリア語版)領を含み、組み込まれた領地にはかつてのフリウリ伯領があった)の領域を含む公国は東方辺境伯、後のオーストリアとケルンテン公国によって分割されたのである。東方辺境伯にはレオポルト1世がケルンテン公にはハインリヒ1世の息子でかつてのバイエルン公であったベルトルトが据えられた。 バイエルンを喪失したハインリヒ2世ではあったがそのままにしておくわけにはいかなかった。977年に三ハインリヒの戦い(英語版)(戦闘に参加したハインリヒ2世、ハインリヒ1世、アウクスブルク司教兼ケルンテン公ハインリヒの3人のハインリヒに因む)と呼ばれる新たなバイエルン貴族のローマ皇帝に対する反乱において主導権を握ったのである。しかし、反乱は978年に鎮圧され、結果、バイエルンは最終的に帝国の中央集権化に置かれることとなった。ハインリヒ2世は逮捕されてオットー2世が死ぬまでユトレヒト司教(オランダ語版)の監視下におかれることとなった。 982年に皇帝に忠実で戦友でもあったオットー1世が死ぬと新たなバイエルン公には978年に反乱に参加したことでケルンテンを没収されていたハインリヒ1世が任命された。しかし983年にオットー2世が死んだことで自由の身となったハインリヒ2世は直ちに幼帝オットー3世に対する反乱を立ち上げた。この時は王位を奪取することは叶わなかったものの皇帝に対して忠実であることを誓うことと引き換えに985年にバイエルンを、989年にはケルンテンをそれぞれ返還してもらっている。ハインリヒ1世には代償としてケルンテンが返還されたもののヴェローナはオットー1世が保持した。989年にハインリヒ1世が死ぬとその領地はハインリヒ2世の手に渡り、広大であった父祖の地は再び一つとなった。 995年にハインリヒ2世が死ぬとバイエルンは息子のハインリヒ4世によって相続されたが、ケルンテンはオットー3世によって、985年まで同地を所有していたオットー1世に渡された。ハインリヒ4世はオットー3世の忠実な同盟者となり、1002年にオットー3世の死を受けて自身が皇帝ハインリヒ2世となった。
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