リウドルフの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:57 UTC 版)
「オットー1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「リウドルフの反乱」の解説
953年、王国全土を巻き込む大反乱が勃発した。首謀者は王の息子リウドルフと王の女婿コンラート赤毛公であった。王国内でも最も力を持つ2人の王族に、前年のクリスマス・パーティーに招かれた者たちを始め、諸侯の多くが味方した。コンラート赤毛公はロートリンゲン大公位を剥奪された。オットー1世は弟ハインリヒともども窮地に陥るが、翌954年、ハンガリーから当時は非キリスト教徒であったマジャル人たちが攻め込んでくる。ハインリヒは、「異教徒どもはリウドルフらによって国内に導きいれられたものであり、反乱に加担すれば国の領土を分け与えようという提案を売国奴どもから受けている」という情報を流した。これが功を奏し、リウドルフとコンラートは味方を失い、レーゲンスブルクに追い詰められた。無実を訴えつつ篭城を続けていたが、飢饉が起こったためやむなくオットー1世に降伏した。リウドルフはシュヴァーベン大公位を剥奪され、蟄居処分となった。 ここにきて、オットー1世は近親者によって統治を固めるという政策の脆弱さを知る。代わりに、ケルン大司教となっていた末の弟ブルーノにロートリンゲンの統治権を与えたのを契機として、聖職者による統治政策に切り替えることにした。オットー1世はブルーノを自分の秘書として登用した。また、かつて先妻エドギタに「朝の贈り物」として与えたマクデブルクに大聖堂を建立し、そこを拠点にキリスト教の布教を口実にして東方へ進出することを試みた。
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