フェリー首相の植民地拡大論
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「フランス第三共和政」の記事における「フェリー首相の植民地拡大論」の解説
詳細は「フランス植民地帝国#第二の植民地帝国」を参照 フランスの工業力はドイツやアメリカほどでは無かったが、中産階級に支えられた銀行の資本力があった。ジュール・フェリー首相(第一次:1880年9月23日 - 1881年11月14日)は、資本を武器に帝国主義政策を推し進めて、主にアフリカで植民地拡大を推進した。1881年のチュニジア侵攻でフランス領チュニジアを事実上保護国化し(1830年に出来たフランス領アルジェリアとフランス領北アフリカとして統合)、セネガルにも進出したほか、1882年にコンゴを分割してフランス領コンゴとして保護国化し(正式にはベルリン会議 (アフリカ分割)で決定された。1910年にフランス領赤道アフリカとして統合)、1885年にマダガスカル島の港湾都市を確保し、1891年にフランス領ギニア(フランス語版、英語版)を保護国化した(1895年にフランス領西アフリカとして統合)。 1880年にロシア皇帝アレクサンドル2世は改革派のミハイル・ロリス=メリコフを抜擢し、専制君主だった父帝ニコライ1世が1826年に創設した秘密警察「皇帝官房第三部」を1880年8月に廃止し、内務省警察部内にオフラーナとして改組された。1881年3月13日にアレクサンドル2世暗殺事件が起こり、次の皇帝にはアレクサンドル3世が即位した。アレクサンドル3世のもとで、保守派のコンスタンチン・ポベドノスツェフが権力を掌握し、5月4日に改革派のミハイル・ロリス=メリコフらは失脚した。ドイツのビスマルクは、6月18日に保守派が復権したロシアと三帝協商を復活させ、ロシアからの脅威を解消すると、フランスのチュニジア政策に不満を持つイタリアとオーストリアとの間でも、1882年に三国同盟を結んで、ビスマルク体制と呼ばれるフランス包囲網を確立して大国間の勢力均衡崩壊を防ぐことに腐心するようになり、フランスは再び外交的に孤立した。 1882年のパリブルズ暴落(英語版)からユダヤ系の金融資本への不満が募り、各地でユダヤ人迫害事件が頻発した。インドシナへの侵略は既にナポレオン3世の時代から始まっていたが、トンキン戦争(英語版)(1882年)に勝利し、1883年・1884年には阮朝越南国に癸未条約(英語版)(第1次フエ条約、アルマン条約)と甲申条約(英語版)(第2次フエ条約、パトノートル条約)を認めさせ、フランス保護領トンキン(フランス語版)を保護国化した。清は保護国化に宗主権を訴えて反対したが、ジュール・フェリー首相(第二次:1883年2月21日 - 1885年4月6日)は、清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清のベトナムに対する宗主権を否定させた。1887年にカンボジアとあわせてフランス領インドシナ連邦を成立させ、1893年にはラオスもあわせその領域を拡大させた。また、19世紀末には中国分割が本格化する中で広州湾付近に勢力を伸張させた。
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