トンキン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
詳細は「トンキン戦争(英語版)」を参照 1882年、雲南省など南部で主に動員された清帝国の遠征軍がベトナムに入り、ランソン(諒山)などトンキンの重要拠点に次々と駐屯を開始した。フランス政府の代表として清国に滞在していた駐在公使フレデリック・ブレーは、1882年11月と12月に李鴻章と交渉してトンキンを仏清で二分する協定を結ぼうと奔走した(阮朝には無断)。 一方のリビエールはブレーを弱腰と考え、1883年に黒旗軍・清軍・阮朝軍と決戦を行うべく520人の兵士を連れて進撃を再開した。3月、ナムディン砦の戦い(英語版)で200人の敵兵を倒して勝利、リビエールは装備差による戦力優位を確信した。続いて敵軍の攻勢によってハノイ砦近郊で発生したGia Cucの戦い(英語版)にも勝利を得た。リビエールの行動のタイミングは完璧で、ナムディン(南定)砦占領という懲罰を覚悟した行為を行った直後、フランス本国で植民地拡大を新たな外交政策に据えるジュール・フェリー政権が成立した。フェリー政権はブレーの講和案を強く批判、ブレーを公使から解任すると共にリビエールの軍事的独断を英雄的行為として賞賛した。 1883年4月、清朝軍の唐景崧将軍は士気の低い阮朝軍では不利と主張して、劉永福を説得して黒旗軍による攻勢を計画した。1883年5月10日、3,000名の黒旗軍がフランス軍を攻撃、5月19日に両軍はハノイ近郊のコウザイ地区で衝突(コウザイの戦い(英語版))した。550人のフランス兵はコウザイ地区に掛かる橋に陣地を築いていた黒旗軍に反撃を受け、指揮官リビエールが戦死して敗走した。 しかし既にリビエールの行動はジュール・フェリー政権の支持を得ており、直ちにフランス軍の大規模増派が開始、後に清帝国を巻き込む全面戦争に発展した。
※この「トンキン戦争」の解説は、「清仏戦争」の解説の一部です。
「トンキン戦争」を含む「清仏戦争」の記事については、「清仏戦争」の概要を参照ください。
トンキン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 19:04 UTC 版)
1873年、フランスはフランシス・ガルニエ率いる部隊をトンキンに派遣し、ハノイを攻略したが、この時は甲戌条約(第二次サイゴン条約)によって撤兵している。しかし資源が豊富で人口も多く、中国と接するトンキンはフランスの垂涎の的であり、1882年、アンリ・リヴィエール(英語版)率いるフランス軍が再びトンキンに侵攻した(トンキン戦争(英語版))。
※この「トンキン戦争」の解説は、「トンキン」の解説の一部です。
「トンキン戦争」を含む「トンキン」の記事については、「トンキン」の概要を参照ください。
- トンキン戦争のページへのリンク