フランスとの抗争とは? わかりやすく解説

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フランスとの抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 16:10 UTC 版)

阮朝」の記事における「フランスとの抗争」の解説

フランス領インドシナ」も参照 1858年8月、沱㶞はシャルル・リゴー・ド・ジェヌイ(英語版提督率いる仏西連合軍侵攻を受け、9月1日占拠された(コーチシナ戦争英語版)、1858年-1862年)。その後西貢川を遡行した連合軍によって嘉定城も陥落1859年2月西貢サイゴン現在のホーチミン市第一区第二区)を占領した連合軍根拠地を沱㶞から移した。これに対して大南軍も反撃したが、フランス軍1861年には美湫(ミトー)・嘉定を、1862年には辺和(ビエンホア)・巴地(バリア)に続いて永隆ヴィンロン)を占領した当時、北圻で発生した飢饉とそれに続く反乱などもあり、南方西貢より穀倉としての北圻の確保優先した阮朝は、フランス軍との講和交渉行い潘清簡維浹(中国語版)を西貢派遣し1862年6月壬戌条約第1次サイゴン条約)を締結した。この条約により大南国内キリスト教布教の自由を認め、南圻(コーシャンシーヌ)東部三省(辺和(英語版)・嘉定・定祥(現在のティエンザン省周辺))及び崑崙島をフランス割譲するとともに10年年賦で2千万フラン戦費賠償金支払うことが定められた。 南圻東部三省獲得したフランスメコン河遡上四川へ至る水路調査着手した。しかしメコン河中流域カンボジア領内通過しており、その地域での主導権掌握企図したフランスは、カンボジア国内の内訌利用して1864年カンボジア保護国とすることに成功する。しかしカンボジア国内ではシャム支援受けた反乱続いており、この反対勢力排除するために南圻西部三省割譲大南迫った嗣徳帝がこの割譲要求拒否するフランス軍1867年西部三省への軍事侵攻開始、南圻全省をその支配下収めた。 南圻の植民地化成功したフランスは、メコン河利用した清への通商ルート開発推進した詳細な調査が行われた結果メコン河中流現在のラオス・カンボジア国境地帯中心に急流および岩礁存在し通商路として利用することは困難であったこのため代替案として、東京から紅河遡上して雲南へ至る通商路に注目した。 この時期阮朝では反乱頻発しまた、太平天国系統を引く呉亜忠軍団侵入するなど、弱体化進んでいた。1873年4月一介フランス商人デュピュイ(英語版)による外交問題がたまたま発生原因紅河航行に関することであったが、コーチシナ総督デュプレフランス語版)は11月事件調査名目海軍大尉フランシス・ガルニエ河内派遣した。しかし、フランス人紅河交通要求するフランス側と、それを拒否する大南側の交渉決裂ガルニエ武力行使に及び、1873年河内占拠した。しかし12月には河内奪還目指す黒旗軍反撃しフランス軍撃退している。 当時フランス普仏戦争敗戦理に忙殺されており、総督府インドシナでの拡張方針反対姿勢示した政府デュプレに北圻攻略中止訓令発令した。そして戦後処理の講和会議開かれ1874年3月第2次サイゴン条約甲戌条約)が締結された。この条約によりフランス大南主権確認する同時に武器供与技術者派遣約束、また大南は南圻六省におけるフランス主権承認し、施耐(英語版)及び寧海現在のハイフォン)を開港することが定められ懸案であった紅河通行権フランス対し認めている。 1882年末、紅河遡行していたフランス人が老街(ラオカイ)で黒旗軍阻止される事件発生したコーチシナ総督ル・ミル・ド・ヴィレル(英語版)は甲戌条約違反問責するためアンリ・リヴィエール英語版海軍大佐河内派遣した河内到着したリヴィエール外交交渉無益判断し直ち軍事行動着手河内占拠した嗣徳帝救援要請受けた清は北圻に出兵清仏戦争)、黒旗軍山西ソンタイ)を拠点としてフランス軍対峙した。黒旗軍フランス軍撃破リヴィエール戦死させると、この敗戦受けたフランス政府大南への遠征軍派遣することを決定し大南フランスの間での緊張一気高まったフランス大南都城である順化攻略決定1883年順化外港である順安フアンベトナム語版))を攻略トンキン戦争英語版)、1883年6月 - 1886年4月)、そのまま順化への進撃開始した対外的危機迎えた阮朝7月17日嗣徳帝崩御すると、これに伴いあまり素行良くなかった甥の育徳帝即位したが、実の母である慈裕太后(中国語版)の命で、阮朝実権掌握していた阮文祥尊室説により僅か2日廃立され、代わって7月23日嗣徳帝の弟の協和帝擁立された。これ以後、「三宮」(ベトナム語Tam Cung / 三宮)と呼ばれる裕太后・儷天英皇后中国語版)・学妃(中国語版)の三人后妃阮文祥尊室説による皇帝廃立続いた阮朝抵抗することができずに講和要請し8月25日癸未条約英語版)(第一次フエ条約アルマン条約)が締結された。この条約大南フランス保護国となり、中圻(アンナン)は従来通り阮朝による統治認めるが、北圻(トンキン)にはフランス理事官設置することとなった協和帝阮文祥尊室説両名排除してフランス接近しようとしたが、慈裕太后の命で逆に両者により捕縛され反対した陳践誠(中国語版)も8月18日殺害された。11月29日廃位され協和帝毒殺され、甥の建福帝擁立された。1884年6月6日には甲申条約英語版)(第二次フエ条約、パルノートル条約)が締結され、ここに至り大南フランス支配下に入ることとなり、フランスとの抗争(ベトナム語版)が終結した建福帝は、性淫を好む性格から阮文祥養母の学妃とが密通していることに気付き、彼らを処罰しようとしたが、7月31日在位僅か八ヶ月で学妃に毒殺された。嗣徳帝崩御後1年足らずで4人もの皇帝即位する異常事態阮朝内部での混乱が続くこととなり、建福帝の弟である咸宜帝即位したフランス清仏戦争勝利し1885年6月に清との間に天津条約締結。清が大南フランス保護領化承認し大南対す宗主権放棄した7月5日咸宜元年5月23日)、フランス高圧的な態度反発した尊室説は対仏クーデター勤王運動中国語版))を起こし順化フランス駐屯軍及び在留フランス人襲撃しフランス勢力一掃企てたフランス軍直ち反撃開始し宮城占拠された(「失守京都」)。尊室説咸宜帝擁して北方広平省逃れフランス勢力対抗すべく檄文各地発したフランス咸宜帝順化帰還尊室説逮捕努めたが、山間部対抗する両者捕捉することができず、9月にはフランス咸宜帝廃位一方的に宣言し、代わってその兄の同慶帝擁立したその後フランス対す蜂起続いたが、近代的な装備を持つフランス軍前に敗北していく。広平奥地抵抗続けた咸宜帝も、1888年11月フランス軍に捕えられてアルジェリア配流され、尊室説は清へ亡命したその後も潘廷逢(ファン・ディン・フン(英語版))や黄花探ホアン・ホア・タム)による抵抗続いたが、それらも19世紀末にはほぼ鎮圧されフランスによる全面的な統治時代迎えることとなった

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フランスとの抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 06:48 UTC 版)

ヘンリー3世 (イングランド王)」の記事における「フランスとの抗争」の解説

幸いフランスでも、1226年から12歳ルイ9世王位継いだため、イングランド対すフランス脅威減少していた。1229年には逆に、父が失ったフランス領土回復するために侵攻したが、成功はしなかった。1236年ルイ9世の妃マルグリットの妹であるエリナー結婚した1242年には母イザベラやその再婚相手であるラ・マルシュ伯ユーグ10世・ド・リュジニャンたちに誘われポワチエ侵攻したが、逆にアキテーヌ地方占領され窮地陥ったルイ9世イングランドとの抗争が長引くことを好まずイングランド王が既に失っていたノルマンディーアンジュー正式に放棄しアキテーヌ公としてフランス王臣従を誓うことを条件に、アキテーヌ地方南部ガスコーニュ領有認めパリ条約締結した

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