リアウ王国の繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:02 UTC 版)
18世紀中葉、リアウはブギス人の海運活動に支えられ、10万人もの人口を抱えて繁栄した。ジョホール・リアウ王国副王の末裔ラジャ・アリ・ハジが19世紀に著述した『トゥーファト・アル・ナーフィス(貴重な贈り物)』によれば、リアウの人口10万のうち半数はブギス系の人びとであったという。ブギス人は、モルッカ諸島(マルク諸島、現インドネシア)や小スンダ列島(現インドネシア。バリ島からティモール島まで東西に連なる)などでも広く交易活動に参加した。当時オランダ東インド会社が交易独占を試みたモルッカの香辛料をその監視網をかいくぐって購入し、故地であるスラウェシ島やカリマンタン島を経てマラッカ海峡域に供給した。パレンバン(現インドネシア・南スマトラ州)やジャンピの胡椒、スランゴールの錫などをもたらしたのもブギス人たちであった。リアウの繁栄が頂点に達したのは、上述の副王ダエン・カンボジャの時代、およびダエン・チュラクの子で1777年に副王となったラジャ・ハジ(マレー語版)の時代であった。 リアウには、ブギス人や中国人、イギリス人私貿易商人、インド系ムスリム商人、アラブ商人などが寄港し、西方からはインド産の綿布やアヘン、武器や弾薬をもたらした。リアウ周辺の海域はまた、対中国貿易の輸出品として重要な海産物も豊かであった。海産物の漁労や採集を担ったのは海上民であったが、18世紀中葉に中国からの来航船が増えると中国商人とともに移住者も増加した。また、18世紀後半にはサイイド(「主人」)やシャイフ(「族長」)を名乗るアラブ人が多数居住し、イスラーム神秘主義教団の活動もさかんであった。 なお、この時期にはイギリスも東南アジア貿易に乗り出した。1623年のアンボイナ事件でオランダに一敗地を喫してインド亜大陸やイランに転進しながらも積極的にアジア進出に乗り出していった。イギリスは、18世紀中葉のインドでのフランスとの抗争に勝利したあと、特に東南アジア進出をさかんに進めた。
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