リアウ王国の衰亡と英蘭戦争とは? わかりやすく解説

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リアウ王国の衰亡と英蘭戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:02 UTC 版)

ジョホール王国」の記事における「リアウ王国の衰亡と英蘭戦争」の解説

1780年ヨーロッパ大陸では第四次英蘭戦争起こり、その余波東南アジアにもおよんだ1782年オランダ勢力リアウ停泊していたイギリス船を捕獲した行為対し副王ラジャ・ハジは怒りオランダに抗議するとともにブギス人の慣習にしたがって支配者取り前として没収品の半分差し出すことを求めた。しかし、この要求拒絶されたため、ラジャ・ハジはリアウスランゴール、ルンバウ在住ブギス人を動員して戦闘準備進めたオランダ1783年末にリアウ先制攻撃したものブギス人の反撃により敗北し撤兵した。ラジャ・ハジは王国の全戦力オランダムラカ包囲投入しオランダ勢力はそのため窮地陥ったが、1784年イギリスとの戦争が終わると、本国は6隻の艦隊ムラカ派遣、ようやくこの難をのがれた1784年8月勢いづいたオランダスランゴール降伏させてオランダ支配認めさせ、同年10月にはリアウ占領したスルタンマフムードは、オランダ進駐軍対しブギス人の束縛から自由になったとして感謝の意述べジョホール・リアウ王国オランダ属国となる協定同意した。これにより、リアウ宮廷にはオランダ人理事官送り込まれその実質的な統治者となり、リアウ以外の場所で出生したブギス人はリアウより追放された。 ところが、スルタン・マフムードはやがてオランダ人理事官監視嫌悪するようになり、両者の関係悪化したマフムード協定違背し当時マラッカ海峡域にまで進出しはじめたスールー王国海洋民イラヌン人を用いてリアウオランダ人追放した。しかし、協力報酬をめぐる問題からイラヌン人たちとマフムード対立するようになり、そこへオランダ反撃があってスルタンパハン逃亡したリアウ多くマレー人パハンやトルンガヌへ、ブギス人もスランゴールシンタンインドネシア語版)(現インドネシア西カリマンタン州)をはじめとするカリマンタンボルネオ島)などに去ってリアウ繁栄終焉むかえた18世紀末ころの王国は、大きくリアウ王国パハン王国とに分裂傾向見せようになった一方イギリス東インド会社は、1786年にはマラッカ海峡に臨むペナン島(現マレーシア・ペナン州)を獲得している。これは、シャム攻撃恐れたクダ王国英語版)が、イギリスのフランシス・ライト(英語版)の提案応えてイギリスの軍事援助見返りペナン島東インド会社賃貸したものであるこの後ペナン島は「プリンス・オブ・ウェールズ島」と改名されイギリス東南アジア進出拠点となった1791年にはシャムパタニ王国侵攻したため、クダ王国協定によりイギリス派兵要求した拒否されている。イギリス違約知ったクダ王国1万規模大軍動員してペナン島奪回企図したが、この計画事前にフランシス・ライトの知るところとなり、クダペナン奪回失敗したのみならず、島の対岸位置するマレー半島のスブランプライ(英語版)をも奪われ、ともに正式にイギリスへ割譲することとなった

※この「リアウ王国の衰亡と英蘭戦争」の解説は、「ジョホール王国」の解説の一部です。
「リアウ王国の衰亡と英蘭戦争」を含む「ジョホール王国」の記事については、「ジョホール王国」の概要を参照ください。

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