リアウ王国の衰亡と英蘭戦争
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「ジョホール王国」の記事における「リアウ王国の衰亡と英蘭戦争」の解説
1780年、ヨーロッパ大陸では第四次英蘭戦争が起こり、その余波は東南アジアにもおよんだ。1782年、オランダ勢力がリアウに停泊していたイギリス船を捕獲した行為に対し、副王ラジャ・ハジは怒り、オランダに抗議するとともに、ブギス人の慣習にしたがって支配者の取り前として没収品の半分を差し出すことを求めた。しかし、この要求は拒絶されたため、ラジャ・ハジはリアウ、スランゴール、ルンバウ在住のブギス人を動員して戦闘準備を進めた。オランダは1783年末にリアウを先制攻撃したもののブギス人の反撃により敗北し、撤兵した。ラジャ・ハジは王国の全戦力をオランダ領ムラカの包囲に投入し、オランダ勢力はそのため窮地に陥ったが、1784年にイギリスとの戦争が終わると、本国は6隻の艦隊をムラカに派遣、ようやくこの難をのがれた。 1784年8月、勢いづいたオランダはスランゴールを降伏させてオランダ支配を認めさせ、同年10月にはリアウも占領した。スルタンのマフムードは、オランダの進駐軍に対し、ブギス人の束縛から自由になったとして感謝の意を述べ、ジョホール・リアウ王国がオランダの属国となる協定に同意した。これにより、リアウの宮廷にはオランダ人理事官が送り込まれ、その実質的な統治者となり、リアウ以外の場所で出生したブギス人はリアウより追放された。 ところが、スルタン・マフムードはやがてオランダ人理事官の監視を嫌悪するようになり、両者の関係は悪化した。マフムードは協定に違背し、当時マラッカ海峡域にまで進出しはじめたスールー王国の海洋民イラヌン人を用いてリアウのオランダ人を追放した。しかし、協力の報酬をめぐる問題からイラヌン人たちとマフムードが対立するようになり、そこへオランダの反撃があってスルタンはパハンに逃亡した。リアウの多くのマレー人がパハンやトルンガヌへ、ブギス人もスランゴールやシンタン(インドネシア語版)(現インドネシア・西カリマンタン州)をはじめとするカリマンタン(ボルネオ島)などに去って、リアウの繁栄は終焉をむかえた。18世紀末ころの王国は、大きくはリアウ王国とパハン王国とに分裂の傾向を見せるようになった。 一方、イギリス東インド会社は、1786年にはマラッカ海峡に臨むペナン島(現マレーシア・ペナン州)を獲得している。これは、シャムの攻撃を恐れたクダ王国(英語版)が、イギリスのフランシス・ライト(英語版)の提案に応えて、イギリスの軍事援助の見返りにペナン島を東インド会社に賃貸したものである。この後、ペナン島は「プリンス・オブ・ウェールズ島」と改名され、イギリスの東南アジア進出の拠点となった。1791年にはシャムがパタニ王国を侵攻したため、クダ王国は協定によりイギリスに派兵を要求したが拒否されている。イギリスの違約を知ったクダ王国は1万人規模の大軍を動員してペナン島奪回を企図したが、この計画は事前にフランシス・ライトの知るところとなり、クダはペナン奪回に失敗したのみならず、島の対岸に位置するマレー半島のスブランプライ(英語版)をも奪われ、ともに正式にイギリスへ割譲することとなった。
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