フランスとの紛争
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「スペイン領テキサス」の記事における「フランスとの紛争」の解説
18世紀初期に、フランスは再度テキサスにおけるスペインの権益に刺激を与えた。1699年、フランスはビロキシ湾とミシシッピ川に砦を建設し、メキシコ湾岸のスペインによる排他的支配を終わらせた。スペインは「ルイジアナにおけるフランスの権利を認めようとせず」フランス王ルイ14世には200年前にローマ教皇がアメリカをスペインに渡すと布告したことを無視しているので、破門されるかもしれないと警告したが、フランスの侵入を停めたり、スペインの開拓地を拡張するような行動は採らなかった。この2国はスペイン継承戦争の間は同盟国であり、アメリカ大陸でも協業した。その友好関係にも拘わらず、スペインはその領土内でフランスが交易を行うのを認めようとしないままだった。1707年にフランスがテキサスに侵入したという噂を聞くと、ヌエバ・エスパーニャ-の副王はあらゆる州知事に外国人とその商品の入国を妨げるよう命じた。テハスのインディアンがフランスからの商品を受けることを止めさせるために、ペドロ・デ・アグイレの指揮する兵士の分遣隊がテキサスに向かった。その遠征隊はコロラド川までは行ったが、テハス族の酋長がスペインに不満を抱いたままであると知ったときに回れ右をした。この部隊はサンアントニオ川周辺地域を訪れ、その川が名付けられていなかったことに驚きサンアントニオ・デ・パドゥアと名付けたが、何年も前のパドヴァのアントニオの日に、テランとマサネットが近くでキャンプし、その川に同じ名前を付けたことを知らなかった。 1711年、以前にテキサスの伝道所に仕えたフランシスコ会宣教師フランシスコ・イダルゴがカド族と共に伝道所を再建することを望んだ。スペイン政府はその計画のために資金や軍隊を送ることを望まなかったので、イダルゴはフランス領ルイジアナの知事カディラック卿アントワーヌ・ラウメー・ド・ラ・モスに援助を求めて接近した。カディラックはルイジアナを利益の出る植民地にするよう命令されており、ルイジアナに近い所にいるスペイン人開拓者は新しい交易機会を提供してくれると考えた。カディラックは、ルイ・ジュシュロー・ド・サンドニを、子供の時にサンルイ砦の虐殺を免れていたピエールとロベールのタロン兄弟と共に派遣し、イダルゴを見付け援助を申し出させようとした。1714年7月、フランスの派遣団はスペインの辺境、当時イダルゴが居るとされたリオ・グランデ川周辺に到着した。サンドニが逮捕されて尋問されたが、最後は釈放された。スペインはフランスがスペインの他の地域でも脅威になり得ると認識し、フランス領ルイジアナとヌエバ・エスパーニャの間の緩衝地帯としてテキサスの再占領を命じた。 1716年4月12日、ドミンゴ・ラモンに率いられた遠征隊がコアウイラ州サン・フアン・バウティスタを出発してテキサスに向かい、4つの伝道所と25人の兵士が守る1つの砦の建設を目指した。この隊は75人からなり、3人の子供、7人の女性、18人の兵士および10人の宣教師が含まれていた。スペイン領テキサスとしては記録に残る最初の女性だった。サンドニはスペイン女性と結婚した後で、このスペイン遠征隊に加わった。 この隊は1716年6月遅くにハシナイ族インディアンの土地に到着し、暖かく迎えられた。7月3日、聖フランシスコ伝道所がネチェ族インディアンのためのヌエストロ・パードレ・サンフランシスコ・デ・ロス・テハスとして再建された。数日後、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・プリシマ・コンセプシオンが、ハシナイ連邦の主要部族ハイナイ族のアンヘリーナ川沿いの主集落に建設された。3つめの伝道所、ヌエストラ・セニョーラ・デ・グアダルーペは、プリシマ・コンセプシオンから15マイル (24 km) 東、現在のナカドーチェスとなった地にあったナコグドチェ族の主集落に建設された。最後の伝道所、サンホセ・デ・ロス・ナソニスは、現在のクッシングの真北、ナソニ族インディアンの集落に建設された。1つの砦、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロス・ドロレスはサンフランシスコ・デ・ロス・テハスの反対側に建設された。 同じ頃フランスはさらに西での存在感を与えるためにナチトシュに砦を1つ築いた。スペインはナチトシュの直ぐ西にさらに2つの伝道所、サンミゲル・デ・ロス・アダエスとドロレス・デ・ロス・アイスを建設して対抗した。これらの伝道所は論争のあった地域内にあった。フランスはサビーン川がフランス領ルイジアナの西境界であると主張し、スペインはレッド川がテキサスの東境界であると主張していた。重複していたのは45マイル (72 km) の幅があった。 新しい伝道所は一番近いスペインの開拓地サンフアン・バウティスタから400マイル (640 km) 以上離れていた。伝道所に物資を補給するのは難しく、1718年までに宣教師達は恐ろしい苦境に陥った。1716年遅くにテキサスの知事に任命されたマルティン・デ・アラルコンはリオ・グランデ川に沿った開拓地とテキサス東部の新しい伝道所との間に中継基地を造りたいと考えた。1707年にスペイン人が称賛した地域にはサンアントニオ川水源近くにコアウイルテカ族が繁栄する地域社会を建設していた。アラルコンは10家族を含む72人の集団を率いて、1718年4月9日にテキサスに入った。彼等は時が経つに連れて548頭の馬、6群れのラバ、およびその他の家畜をもたらした。5月1日、この集団は伝道所サンアントニオ・デ・ベラノとして使う泥と枝と藁でできた建物を一時的に造り、その礼拝堂は後にアラモと呼ばれるようになった。この伝道所には当初、宣教師の一人が子供の頃から育て上げた3人ないし5人のインディアンが住んだ。この伝道所から北に1マイル (1.6 km) の所にアラルコンがサンアントニオ・デ・ベハールと呼ぶ砦を造った。アラルコンはベハール、今日のサンアントニオの自治制も承認した。集落(プエブロ)よりは高く、市(シウダード)よりは低い位置付けを与えられたサンアントニオはテキサスで唯一の町(ビリャ)となり、そこに入った開拓者は農業と放牧を生きる糧にした。新しい開拓地を設立したアラルコンはテキサス東部に進む任務を続け、そこでフランスが違法に多くの交易を行っている証拠を見付けた。 翌1719年、四カ国同盟戦争が勃発し、スペインはフランス、イングランド、オランダおよびオーストリアと戦うことになった。この戦争は主にイタリアを戦場にしたが、イングランドとフランスは北アメリカでのスペインの権益を奪うための口実としてこの戦争を使った。6月、ナカタシュから来た7人のフランス人が、戦争が始まったことを知らずに只一人が守っていたサンミゲル・デ・ロス・アデアスの伝道所を占領した。このフランス兵はさらに100人の兵士が来ると説明したので、スペインの植民者、宣教師および残っていた兵士達はその地域を放棄してサンアントニオに逃げた。 マルキス・デ・サンミゲル・デ・アガヨがテキサス再征服を買って出て、500名の軍隊を起ち上げた。アガヨはコアウイラとテキサスの知事にも指名されており、職務のためにテキサスに動くのは1年間も遅れて1720年遅くになった。アガヨが出発する直前にヨーロッパでの戦闘が終わり、スペイン王フェリペ5世はルイジアナを侵略しないよう命じたが、武力を使わずにテキサス東部を取り返す方法を見付けるように言ってきた。遠征隊は2,800頭以上の馬、6,400頭の羊および多くの山羊を連れて行き、これがテキサスでは初めての大規模な「牛追い」になった。このことでテキサスには家畜の数が飛躍的に増加し、スペイン人による放牧の始まりを告げた。 1721年7月、アガヨの遠征隊はネチェズ川に近付いている時に、フランス側に戻りサンアントニオ襲撃を率いていたサンドニに遭った。サンドニは自分の部隊が遙かに劣勢であることを悟り、テキサス東部を放棄してルイジアナに戻ることに同意した。アガヨは続いて、ナカタシュから12マイル (19 km) しか離れていない現在のルイジアナ州ローブリン近くに新しい砦、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ピラール・デ・ロス・アダエスを建設するよう命じた。この新しい砦がテキサス最初の首都となり、6門の大砲と100名の兵士に守られた。テキサス東部の伝道所6カ所が再開され、このときデ・ロス・テハスと呼ばれたデロレス砦はナチェズ川からアンヘリーナ川近くプリシマ・コンセプシオン伝道所に近い場所に移された。続いてラ・バイーアと呼ばれたラ・バイーア・デル・エスピリトゥ・サント砦を元サンルイ砦があった場所に建設した。その近くにはココ族、カランカワ族およびクハーネ族インディアンのために、エスピリトゥ・サント・デ・スニガ(これもラ・バイーアと呼ばれた)伝道所を建設した。90名の兵士が守備隊として残された。アガヨは1722年にメキシコシティに戻り、知事を辞任した。アガヨが遠征を始めたとき、テキサスにはサンアントニオの町1つと約60名の兵士が居ただけだったが、その辞任の時には4つの砦、250名以上の兵士、10の伝道所およびサンアントニオの小さな文民の町ができるまでに成長していた。
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