イギリスおよびフランスとの戦争の脅威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/16 05:29 UTC 版)
「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の記事における「イギリスおよびフランスとの戦争の脅威」の解説
1793年以降世界的な戦争状態となり、ヨーロッパの外れにある小国でも中立を保つことができなくなっていた。ジェファーソン派はイギリスに対する強硬姿勢を崩さず、再度の戦争すら辞さなかった。連邦党は1795年のジェイ条約でイギリスとの戦争を回避するように務めた。この条約は、戦争の回避であり、インディアンの脅威を減らし、世界の最も経済力のある国との良好な貿易関係を創りだし、アメリカ独立戦争以来引き摺っていた論争を終わらせるものだと連邦党が言ったとしても、イギリスへの売国だとジェファーソン派が非難したことで、大きな論争になった。ジェファーソンが1801年に政権を掌握したときに、ジェイ条約を追認したが、イギリスとの新たな論争は1812年からの米英戦争に繋がることになった。 1798年、フランスとの紛争から擬似戦争になった。これは両国の海軍や商船を巻き込む宣戦布告無き海上戦争となった。民主共和党はフランスが真に平和を望んでいると語ったが、XYZ事件が起こってその立場を弱めた。フランスとの全面戦争が避けられない状況になると、ハミルトンとその「連邦党タカ派」の者達は、大規模な軍隊を起こし(ハミルトンが統制)、士官を任命すること(ハミルトンがその党員に与えた)に議会の承認を得ることで問題に対処しようとした。1798年の外国人・治安諸法では、ジェファーソン支持の編集者やバーモント州選出の連邦下院議員マシュー・ライアンなど不満分子を投獄した。ライアンは獄中にあった1798年に再選を果たした。同じく1798年のケンタッキー州およびバージニア州決議は、マディソンとジェファーソンが匿名で起草したものであり、2つの州の議会が連邦政府の権力に挑戦するものとなった。
※この「イギリスおよびフランスとの戦争の脅威」の解説は、「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の解説の一部です。
「イギリスおよびフランスとの戦争の脅威」を含む「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の記事については、「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の概要を参照ください。
- イギリスおよびフランスとの戦争の脅威のページへのリンク