フランスとの緒戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 04:45 UTC 版)
「サモリ・トゥーレ」の記事における「フランスとの緒戦」の解説
フランスは1870年代後半に西アフリカで勢力拡大していき、セネガルから東進してナイル川上流域にある現在のスーダンにまで到達した。彼らはコートジボワールにある拠点とルートを繋ごうと南東に向かおうとした。この行動がトゥーレとの直接衝突を起こすことになる。 1882年2月、フランスの遠征隊がケニエラを包囲していたトゥーレ軍の1部隊を攻撃した。トゥーレはフランス側を撤退させたが、同軍隊が指揮する規律と火力に驚いた。 幾つかの方法で彼はフランス側との対処に接した。まず、彼はリベリアとの通信ラインを確保するため南西に勢力拡大した。1885年1月、彼はシエラレオネの首都フリータウンにあるイギリス植民地に大使を派遣し、自分の王国をイギリスの庇護下に置くよう申し出た。この当時イギリスはフランスとの対立を望まなかったたが、トゥーレに弾倉連発式ライフル銃の大量購入を許可した。 1885年にフランス遠征軍がブレ金鉱を占領しようとした時、トゥーレは反撃に出た。自軍を3つの戦車隊に分けてフランスの連絡線をかき乱し、彼らに即時撤退を余儀なくさせた。
※この「フランスとの緒戦」の解説は、「サモリ・トゥーレ」の解説の一部です。
「フランスとの緒戦」を含む「サモリ・トゥーレ」の記事については、「サモリ・トゥーレ」の概要を参照ください。
- フランスとの緒戦のページへのリンク