フランスとイギリスへの旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 11:35 UTC 版)
「アントニオ・カノーヴァ」の記事における「フランスとイギリスへの旅」の解説
それからの15年は、カノーヴァの人生を変えるような事件らしい事件は起こらない。かろうじて書くことがあるとすれば、仕事が忙しかったことくらいか。とにかく工房の仕事で頭がいっぱいだった。例外は、パリ旅行、ウィーン旅行、そしてフィレンツェなどイタリアの他の都市にほんのちょっと立ち寄った以外は、ずっとローマにいた。 「 彫像は、市民として暮らしていた唯一の証拠 」 とカノーヴァ自身は述べている。 1815年、カノーヴァは教皇からある依頼を受けた。先にナポレオン・ボナパルトによって持ち出された美術作品をパリからイタリアに送還する、その指揮監督である。和解には多くの相反する利益があったので、カノーヴァは相当の熱意と努力とを強いられた。しかし、カノーヴァへの信頼と、それに幸運も手伝って、何とか調停し、任務を達成することができた。 その年の秋、カノーヴァは長い間心に抱いてきたロンドン訪問を実現することができた。カノーヴァは熱烈な歓迎を受けた。ロンドンには、カノーヴァが評価する歴史画家の第一人者ベンジャミン・ハイドン(en:Benjamin Haydon)がいた。カノーヴァがハイドンの何を評価していたかというと、古代ギリシアのパルテノン神殿からイギリスに持ち出したエルギン・マーブルを、イギリスの無学な鑑定家たちがその価値を見くびっていたのに、ハイドンは真っ向から異を唱えたからだった。カノーヴァのイギリスの弟子には、リチャード・ウェストマコット(en:Richard Westmacott)、ジョン・ギブソン(en:John Gibson (sculptor))らがいる。 1816年のはじめに、カノーヴァはローマに戻った。そこでカノーヴァはいくつもの栄誉を授かった。まず、ローマの主要美術協会アカデミア・ディ・サン・ルカの会長になった。そして教皇自らの手によってカノーヴァの名前がthe Golden Volume of the Capitolに刻まれた。さらにイスキア侯爵の爵位と3,000クラウンの年金を受け取った。
※この「フランスとイギリスへの旅」の解説は、「アントニオ・カノーヴァ」の解説の一部です。
「フランスとイギリスへの旅」を含む「アントニオ・カノーヴァ」の記事については、「アントニオ・カノーヴァ」の概要を参照ください。
- フランスとイギリスへの旅のページへのリンク