フランスとスペインの支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:02 UTC 版)
「イスパニョーラ島」の記事における「フランスとスペインの支配」の解説
スペイン人による鉱山労働などでタイノ人らは酷使され、持ち込まれた疫病被害もあり25万と推定されるコロンブス以前の人口は激減し絶滅へと向かった。代わってアフリカからの黒人奴隷が大量に送りこまれた。当初のスペインの全島支配に対し、手薄な西側にフランス人などの海賊が侵入し、北西沖合の島トルトゥーガ島は海賊の巣窟と化した。しばしば貿易船や入植地を襲う海賊の脅威に、1606年にはスペイン人は入植者に対しサントドミンゴ周辺に集まって住むよう命令、空白地となった島の残りにはフランスやオランダ、イギリスなどの勢力が殺到した。1660年代以降フランスは島西部の領有を主張し入植地を築き、1697年のライスワイク条約で正式に島の西側3分の1はフランス領となった。 フランス領サン=ドマングは、北部カプ=フランセ(現カパイシャン)を中心に砂糖・コーヒーのプランテーションが建設され、フランス植民地の中でも最も利益を生み出す植民地となったが、アフリカから連行され酷使される黒人奴隷の間には不満が高まっていた。
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