フランスとバーデン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 09:59 UTC 版)
「パリ条約 (1796年8月)」の記事における「フランスとバーデン」の解説
モローが南西ドイツを侵攻したとき、バーデン辺境伯領も侵攻を免れることはできなかった。1796年7月6日、バーデン辺境伯カール・フリードリヒはアンスバッハへ逃亡、25日にはシュトゥットガルトで停戦協定が合意された。バーデンの全権大使ジギスムント・フォン・ライツェンシュタイン(英語版)は8月25日にパリでフランスと単独講和した。バーデンはライン左岸の領地とケール要塞の割譲、2百万スイス・フランの賠償金支払い、そして大量の補給の提供を余儀なくされた。カール・フリードリヒは帝国諸侯としての援助をせずに中立を維持することも定められ、また教会の財産の没収とライン右岸の曳舟道がフランスに割譲されることも決定された。 9月2日にはオーストリア軍がバーデンに侵攻したため、カール・フリードリヒは単独講和の批准を拒否した。しかし、結局1797年12月15日、ラシュタット会議の直前に元の条約のまま締結された。
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