フランスとの戦い、宗教改革への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:03 UTC 版)
「カール5世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「フランスとの戦い、宗教改革への対応」の解説
カール5世は生涯フランス国王フランソワ1世・アンリ2世父子との戦争を繰り返すことになる。初めは1521年に北イタリアで争い、後にイタリア全土を戦火に投じることになる(イタリア戦争)。1527年にはカール5世のドイツ人傭兵(ランツクネヒト)達がローマで狼藉を働いた。これがローマ劫掠である。このような行為はカール5世の意図するところではなかったとされるが、実際はカール5世がランツクネヒト達に十分な報酬を支払わなかったことが原因だった。結果的にカール5世の軍勢を恐れた教皇クレメンス7世がイングランド王ヘンリー8世の結婚無効の申請を却下し、イングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。 ローマ皇帝として、カール5世は当時論議の的となっていたマルティン・ルターの扱いにも苦慮し、身の安全を保障してヴォルムス帝国議会に召喚し。結果的にルターの主張を認めず、同調者達と共に法の保護を剥奪(帝国追放)した。ここで処罰とまではいかなくとも逮捕・拘束しておけばプロテスタントの興隆を食い止められただろうと後悔することになるが、若い皇帝は身の安全を保障した約束を破ることを良しとせず、スペインの統治・フランス王との抗争に忙殺される中でルター派は広がっていった。 ヘンリー8世と同盟して行った対フランス戦争では1525年にパヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世を捕虜とすることに成功し、1526年にフランスの北イタリアにおける権益を全面放棄するというマドリード講和条約を承認させた。しかし、フランソワ1世は釈放されるとすぐに前言を翻してこの条約を破棄した。そこで1528年、サン・ジョルジョ銀行から融資を受けて、再びの抗争に入った(この間にローマ劫掠事件も起こった)。1529年にあらためてフランスとの間に貴婦人の和約と称されるカンブレー講和条約を、ローマ教皇庁との間にバルセロナ和約を結んで、北イタリアにおける権益を確保したが、その引き換えにブルゴーニュ公領を手放した(ブルゴーニュ伯領・フランシュ=コンテ地域圏は保持)。1530年にはボローニャでイタリア王、ローマ皇帝としての正式な戴冠式を行った。ローマ教皇によって帝冠を受ける儀式はこれが最後になる。1524年に起きたドイツ農民戦争とシュマルカルデン同盟の成立に際しては手一杯だったカール5世は、弟のフェルディナントを代行としてドイツ地方における政務を委託している(フェルディナントは1531年にローマ王に即位)。
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