フランスで幽閉される
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/05 02:42 UTC 版)
「ジョン・ド・ヴィアー (第13代オックスフォード伯)」の記事における「フランスで幽閉される」の解説
だが、1471年にエドワード4世がブルゴーニュの援助でイングランド帰還を狙うと、オックスフォード伯はノーフォークを固め来襲に備えたが、3月にエドワード4世が北東部ヨークシャーのレイヴンスパーンに上陸すると軍勢招集を呼びかけ、4月14日のバーネットの戦いでランカスター派の指揮官の1人としてウォリック伯と共にヨーク派を迎え撃った。戦闘では右翼を率いて敵左翼を破ったが、濃霧で敵味方の区別がつかず同士討ちを行い、混乱に乗じたヨーク派の反撃でウォリック伯が戦死する敗北を喫してしまった。戦後はスコットランドを経て再びフランスへ逃げだし、フランス王ルイ11世の若干の支援を基にオックスフォード伯は、イングランドに対する海賊行為と、時折沿岸部の襲撃を行った。 ここでオックスフォード伯は、経歴上最も不可解な行動をとる。1473年5月、彼はエセックス上陸に失敗して英仏海峡で海賊行為を働いていたが、9月23日にコーンウォール西部のペンザンス沖のセント・マイケルズ・マウントという岩だらけの小島を奪った。なぜこの島を占拠したのかその意図は不明だが、最も可能性が高いのは、エドワード4世を退位させてクラレンス公を王位につけるためのイングランド侵攻作戦の何らかの足がかりであったと思われる。だが結局、孤立無援で侵攻作戦もできないまま半年近く抵抗した後、1474年の初めに降伏した。領土を没収されて身柄をフランスへ移され、カレー近くのハンメス要塞(the fortress of Hammes)の中に収監された。 3年後、オックスフォード伯はハンメス要塞の城壁の上から深い堀に飛び降りた。脱走を試みたのか、それとも自殺を試みたのかは分かっていないが、そのどちらも成功しなかった。結局彼は1484年まで収監されていたが、リチャード3世の治世でヨーク派に動揺が見られると、ハンメス要塞司令官ジェームズ・ブラウント卿(en)を説得してヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)に寝返らせ、ブラウントの手引きで脱走した。オックスフォード伯脱出の知らせを聞いたヘンリー・テューダーは「信じられない喜びに狂喜した」という。
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