1885年の天津条約
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清仏戦争の講和条約である天津条約により、清とベトナム(当時はフランス領インドシナの一部)の国境が定められた。条約の第3条では、トンキンと清の間の国境を明確にするために清仏の委員会を任命することを規定している。清の委員は周德潤、鴻臚寺、鄧承卿であった。フランスの調査団はブルシエ・サン・シャフレイ(Bourcier Saint-Chaffray)を団長とし、在カントンのフランス領事M・シェルツァー(M. Scherzer)、インドシナの著名な探検家ポール・ネイス(Paul Neis)、ティシエール中佐(Tisseyre)、ブアイネ大尉(Bouinais)、パリュ・ド・ラ・バリエール(Pallu de la Barrière)が含まれていた(ただし、後者は調査団の仕事には参加していない)。1885年10月には、デ・クールシー将軍(de Courcy)が軍を派遣し、国境の町を占領した。 国境画定の作業は1885年後半に開始され、1887年に完了した。フランスは、現在の広西チワン族自治区の国境に近く、清仏戦争でフランスが勝利した場所であるドンダンに対する中国の主張を拒否したが、その代わりに広東省の西の国境にあるバクロンヴィー島(白龍尾島)を中国に与えることで合意した。雲南省とトンキンの国境の2つの地域をめぐる紛争は、ベトナムに猛梭と猛賴を与え、中国に馬白関と南丹山の間の肥沃な土地を譲渡することで解決された。1887年6月26日、北京でフランスと清の代表者が新たな国境を確認する協定に調印した。
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