1885年の天津条約とは? わかりやすく解説

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1885年の天津条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/04 14:59 UTC 版)

中越国境」の記事における「1885年の天津条約」の解説

清仏戦争講和条約である天津条約により、清とベトナム当時フランス領インドシナ一部)の国境定められた。条約第3条では、トンキンと清の間の国境明確にするために清仏の委員会任命することを規定している。清の委員周德潤、鴻臚寺、鄧承卿であったフランス調査団はブルシエ・サン・シャフレイ(Bourcier Saint-Chaffray)を団長とし、在カントンフランス領事M・シェルツァー(M. Scherzer)、インドシナ著名な探検家ポール・ネイス(Paul Neis)、ティシエール中佐(Tisseyre)、ブアイネ大尉(Bouinais)、パリュ・ド・ラ・バリエール(Pallu de la Barrière)が含まれていた(ただし、後者調査団仕事には参加していない)。1885年10月には、デ・クールシー将軍(de Courcy)が軍を派遣し国境の町占領した国境画定作業1885年後半開始され1887年完了したフランスは、現在の広西チワン族自治区国境近く清仏戦争フランス勝利した場所であるドンダン対す中国の主張拒否したが、その代わり広東省西の国境にあるバクロンヴィー島白龍尾島)を中国与えることで合意した雲南省トンキン国境2つ地域をめぐる紛争は、ベトナムに猛と猛賴を与え中国に馬白関と南丹山の間の肥沃な土地譲渡することで解決された。1887年6月26日北京フランスと清の代表者新たな国境確認する協定調印した

※この「1885年の天津条約」の解説は、「中越国境」の解説の一部です。
「1885年の天津条約」を含む「中越国境」の記事については、「中越国境」の概要を参照ください。

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