中国(中華民国)の主張
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蔣介石にまつわる記録文書をまとめた『蔣中正先生年譜長編』には、かつて中国で「国恥」教育が実施されたと記録されており、1933年に上海の世界輿地学社から発行され、中国で使用されていた小学校用の地理教科書『小学適用 本國新地圖』には、過去100年間に外国に奪われた中国の国土範囲を表した地図「中華国恥図」が掲載されており、中国を中心とした広大な地域を囲んだ黒の破線(「現在」の国境線)と、その上に引かれた太い赤線(「古い時代」の国境線)があり、赤線で囲んだ広大な範囲がすべて中国の領土であり、赤線と黒の破線に挟まれた領土の差を失ったことが、中国の「国の恥」だと訴えている。赤線は日本海の真ん中を通り、種子島・屋久島をかすめたところで東側に急カーブし、琉球諸島を範囲内に収めながら南下し、台湾、東沙諸島も囲って進み、フィリピンのパラワン島を抜けたところで、再び急にスールー諸島を取り囲むために東へ寄り、ここからボルネオ島北部のマレーシア、ブルネイ、マレーシアとシンガポールのあるマレー半島すべて、そしてインドのアンダマン諸島まで囲いこんでから、ようやく北上し、ミャンマーの西側を通り、ネパールとインド国境を進み、タジキスタンとアフガニスタン、ウズベキスタンやカザフスタンまで含んだ赤線は、中露国境を通ってモンゴルへ向かう。そしてモンゴルもすべて領内としたうえ、樺太すべて、最後に朝鮮半島をまるごと収めて、ようやく環を閉じている。その領土がいつ、どのように失われたかという説明書きには、樺太は「俄佔 一七九〇年後喪失 日佔(ロシアが占領、1790年以後喪失、日本が占領)」とある。
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中国の主張
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中国の地図でも、1951年まではラナク・ラを国境としていた。1956年、中華人民共和国は初の自国領土を規定する地図を発表し、その中ではラナク・ラの西のコンカ・ラが国境線として記されていた。 1956年まで、ラナク・ラにはインドの旗が立てられていた。1958年6月にインドの警備隊がチャンチェンモ渓谷に沿って峠を上ったときには、ラナク・ラの地域に中国の存在の兆候は見られなかった。 翌1959年には中国軍がチャンチェンモ渓谷に潜入していた。1959年10月、インド国境警備隊がコンカ・ラ付近に駐屯地を設けようとしていたところ、中国軍の待ち伏せを受けて銃撃戦となり、何人かのインド兵が死亡し、一部が捕虜にされた(コンカ・ラ事件)。 ラリー・ウォーツェル(英語版)やアレン・S・ホワイティング(英語版)など、西洋の一部の学者は、コンカ・ラがチベットの伝統的な境界線であるという中国の主張を支持している。しかし、他の多くの学者は、中国の主張の矛盾を指摘している。
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