ダライラマ13世の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 03:51 UTC 版)
「チベット (1912-1950)」の記事における「ダライラマ13世の死後」の解説
1912年にAmbanをチベットから追放してから、チベット-中国間の交渉は英国が仲裁する場合のみに行われた。しかし、直接交渉はダライラマ13世の死後である1934年以降に復活し、ラマの死に際して中国は黄(Huang Musong)率いる「弔意使節」をラサに贈った。 ダライラマ13世の死後すぐ、いくつかの報告に応じて、噶廈はチベットが自らの政治情勢を管理できたならば、チベットは名目上中国の一部のままだったという1914年の立場を再び主張した。 1912年以降チベットは中国の制御から事実上独立していた。しかし、チベットの内部の政治事情に触れられない状況で残されており、中国がカムやアムドのチベット人に対しての支配を放棄したならば、他の場合、中国の一部としての名目上の下位の状態を認められてもかまわないということを暗示していた。中国はチベット統治が断絶しなかったという主張を支持して、国民議会と国会の両議会にずっとチベット人議員の名前が保存されていることが公式記録は表していると主張している。 中国はラサへの事務所設立を許可し、理藩院から職員を置き、この委員会のチベット事務理事だった呉忠信に率いらせた。中国の主張によるとこれは行政体だったとしている。しかしチベット人はチベットは中国の一部と言う中国の提案を拒絶し、今度は揚子江東岸の領域の返還を要求したと主張している。ラサへの中国事務所の設立の反応として、英国も同様の許可を得て事務所を置いた。
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