ダライ・ラマ13世と近代化政策
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「チベットの歴史」の記事における「ダライ・ラマ13世と近代化政策」の解説
一方、モンゴルはロシア革命の煽りを受けて、次第に共産化した。イギリスはそれに対抗して、チベットの親イギリス化を図った。 「グレート・ゲーム」を参照 イギリスは1920年、ダライ・ラマ13世がインド亡命中に、担当官チャールズ・ベル(英語版)をチベットに派遣し、兵器や鉱山の開発援助を申し出た。しかしこれは外国嫌いの寺院勢力を刺激し、デプン寺が政府と対立した。チベット政府軍はこれを包囲し、デプン寺僧正を罷免した。 なお、1921年に孫文はチベット人・モンゴル人・ウイグル人などを同化して中華民族としての単一民族国家を目指すことを明らかにしている。 その後、英国主導のチベット近代化は進められ、1922年にはインドと電報線が結ばれ、1924年には水力発電所、兵器工場、郵便制度、警察組織も作られた。パンチェン・ラマ9世はこの近代改革に反対し、1923年に中華民国に亡命した:278。近代化政策により、チベット軍が急激に力を付けたため、ダライ・ラマ13世は侍従長の進言を受け、1925年に軍最高司令官のツァロン・シャペを解任した(大臣職は継続)。その後、ダライラマ13世の政治は次第に内向的になった。侍従長の進言により、1926年には英語学校が廃止され、イギリスと疎遠になった:279。政争も激しくなった。1929年、ツァロン・シャペが大臣を解任され、財務大臣のルンシャルが軍を掌握した。1931年、軍がタバコの闇商人をネパールで逮捕し、監獄で死亡した事件が外交問題となり、ルンシャルが罷免されてクンペラが軍司令官となった。 1930年、ベリの寺院とデルゲの寺院で抗争が発生。そこに中華民国軍(劉文輝指揮)とラサの軍が介入した。この時は満州事変などの影響で中華民国が忙しく、チベット有利に終わって雅礱江が新国境線となった。しかし1932年7月には中国軍が長江左岸まで取り戻した。チベットは国際連盟に仲裁を依頼したが効果なく、ダライラマ13世は1932年9月、長江を国境とし、中国の宗主権を認めることに合意した。新国境付近では、チベット、中華民国それぞれが苛酷な税を取り立てたり、私兵や強盗が支配する地域が出たりした:287。 1938年、英国は最終的に二国間協定としてシムラ条約を発効し、マクマホンライン以南のタワンの僧院にラサへ税を収めることを終えるように求めた。しかしチベットは1940年ごろマクマホンラインの位置を変えた。1947年遅くにはチベット政府は新しい独立インドの外務省に、マクマホンライン以南のチベット人地区に対する主張が述べられた書簡を書いた。中国政府はシムラ書簡にサインを拒んでいたことから、認識の一致として、マクマホンラインの正当性に逃げた。
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