ダライ・ラマ13世と近代化政策とは? わかりやすく解説

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ダライ・ラマ13世と近代化政策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)

チベットの歴史」の記事における「ダライ・ラマ13世と近代化政策」の解説

一方モンゴルロシア革命煽り受けて次第共産化した。イギリスはそれに対抗してチベットの親イギリス化を図った。 「グレート・ゲーム」を参照 イギリス1920年ダライ・ラマ13世インド亡命中に担当官チャールズ・ベル(英語版)をチベット派遣し兵器鉱山開発援助申し出た。しかしこれは外国嫌いの寺院勢力刺激しデプン寺政府対立したチベット政府軍はこれを包囲しデプン寺僧正罷免した。 なお、1921年孫文チベット人モンゴル人ウイグル人などを同化して中華民族としての単一民族国家目指すことを明らかにしている。 その後英国主導チベット近代化進められ1922年にはインド電報線が結ばれ1924年には水力発電所兵器工場郵便制度警察組織作られた。パンチェン・ラマ9世はこの近代改革反対し、1923年中華民国亡命した:278近代化政策により、チベット軍が急激に力を付けたため、ダライ・ラマ13世侍従長進言を受け、1925年に軍最高司令官のツァロン・シャペを解任した(大臣職継続)。その後ダライラマ13世政治次第内向的になった。侍従長進言により、1926年には英語学校が廃止されイギリス疎遠になった:279政争激しくなった。1929年、ツァロン・シャペが大臣解任され財務大臣のルンシャルが軍を掌握した1931年、軍がタバコ闇商人ネパール逮捕し監獄死亡した事件外交問題となり、ルンシャルが罷免されてクンペラが軍司令官となった1930年ベリ寺院デルゲ寺院抗争発生。そこに中華民国軍(劉文輝指揮)とラサの軍が介入した。この時は満州事変などの影響中華民国忙しくチベット有利に終わって雅礱江新国境線となった。しかし1932年7月には中国軍長江左岸まで取り戻したチベット国際連盟仲裁依頼した効果なく、ダライラマ13世1932年9月長江国境とし、中国宗主権認めることに合意した新国付近では、チベット中華民国それぞれ苛酷な税を取り立てたり私兵強盗支配する地域出たりした:2871938年英国最終的に二国間協定としてシムラ条約発効しマクマホンライン以南のタワンの僧院ラサへ税を収めることを終えるように求めた。しかしチベット1940年ごろマクマホンライン位置変えた1947年遅くにはチベット政府新し独立インド外務省に、マクマホンライン以南チベット人地区対す主張述べられ書簡書いた中国政府シムラ書簡サイン拒んでいたことから、認識一致として、マクマホンライン正当性逃げた

※この「ダライ・ラマ13世と近代化政策」の解説は、「チベットの歴史」の解説の一部です。
「ダライ・ラマ13世と近代化政策」を含む「チベットの歴史」の記事については、「チベットの歴史」の概要を参照ください。

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