ダライ・ラマ5世と文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 07:27 UTC 版)
「ダライ・ラマ5世」の記事における「ダライ・ラマ5世と文化」の解説
ダライ・ラマ5世は絵画にも興味を示した。彼は仏教美術に関しての知識に詳しく、審美眼も備えていたといわれる。美術史の熱心な研究者でもあった:221。 1645年から1651年にかけて、新しく作ったポタラ宮の壁画に関しても多くの案を出した。例えばダライ・ラマ1世の前世を表した絵は彼の提案である。この壁画作製の際にはウー・ツァン(中央チベット)各地から画家を招いた。その中には新メンリ画派のツァンパ・チューインギャムツォなどの大物も含まれていた。 1654年には、15世紀に成立した:101メンリ画派(sMan-ris)と16世紀始めに成立した:131キェンリ画派(mKhyen-ris)の画家68人に命じて、デプン寺改装の際の絵を作成させている。ダライ・ラマ5世は自叙伝で、メンリ画派は洗練された静寂表現、キェンリ画派は荒々しい表現に向いているとの感想を述べている:132。 ダライ・ラマ5世は15世紀頃の絵師チェウ(Bye'u)の絵を気に入っており、宮廷絵師にその作風をまねるよう命じたが、うまくいかず結果として17世紀当時のチベット絵画と旧様式の混じった新しい様式が生まれた:93。 当時のチベットでは学問も継承により師から弟子へと伝えられていた。ダライ・ラマ5世は記録好きな人で、自身が学んだ学問の系譜を書き残している。それによれば、彼は図像学は15世紀後半のメンラトゥントゥプを始祖とする8代目の継承者、仏像鑑定はデパ・ラサ・ゾンパ・パンチェンを始祖とする6代目の継承者、インド・中国仏像鑑定は同じくデパ・ラサ・ゾンパ・パンチェンを始祖とする5代目の継承者である:221。
※この「ダライ・ラマ5世と文化」の解説は、「ダライ・ラマ5世」の解説の一部です。
「ダライ・ラマ5世と文化」を含む「ダライ・ラマ5世」の記事については、「ダライ・ラマ5世」の概要を参照ください。
- ダライ・ラマ5世と文化のページへのリンク