ダライ・ラマ7世として
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「ダライ・ラマ7世」の記事における「ダライ・ラマ7世として」の解説
1720年、チベットを平定した清朝は、チベット東北部アムド地方青海にあったホシュート部にチベット=ハン(チベット王)の選出を行うよう要請したが、ジュンガルを裏切って清朝に与同するに至るまでの一連の過程で互いに不和となっていたホシュート部の王侯は、ラサン・ハーンを引き継ぐチベット王を一致して選択できるような状況になく、代々グシ・ハーンの子孫が継承してきたチベット王位は空位の状態がつづいた。こうした中、1723年、青海ホシュートの最長老であったログサンダンジン(ロサン・テンジン)は、チベット王の座を清朝に奪われるのではないかと危惧し、同族のエルデニエルケトクトネーを襲撃して殺害し、清朝皇帝より授与された満州貴族の称号を捨ててダライ・ラマ由来の称号を名乗るという事件が起こった。 康熙帝は摂政(デシー)を廃止し、4人の大臣(カルン)の合議制による新たなチベット政府を組織させ、カンチェンネーをその首班とした。新政府内でダライ・ラマ7世の父親は有力な人物となったが、ダライ・ラマ自身には政治的役割は与えられなかった。1722年の康煕帝死去を承けて清朝の帝位に即いた雍正帝は、チベット政策を転換し、すみやかに軍をラサから引き揚げさせた。1723年の青海の事件を新皇帝は「反乱」とみなし、この年から翌1724年にかけて青海草原に侵攻、グシ・ハーン一族を制圧し、1725年から1732年にかけて青海併合をはじめとしてチベット分割を推し進めた。雍正帝が行ったチベット分割(西蔵・青海・甘粛・四川・雲南の5地域区分)は、清国の滅亡、中華民国時代の変動期を経て、現・中共政権まで、ほぼそのまま踏襲されている。 ダライ・ラマ7世ケルサン・ギャツォは当時、グシ・ハーンと後継者たちには「ハン」の称号、分家一族にはホンタイジ以下の各種称号および印章を授与し、さらにグシ・ハーン一族の属民とされた諸侯に対しても領主権を認め、教団の長に対しても宗教指導者の地位を認めていた。しかし、雍正帝はこれらの権限の行使を停止させようと図った。また、ダライ・ラマは中国とチベットの貿易に対し、国境のタルツェンド(四川省康定県)で隊商から徴税する権能を有していたが、年間400万両の賠償金と引き替えに、この権能も清に引き渡された。にもかかわらず、ダライ・ラマの権威はチベット全域さらにはチベットを超えて広がるチベット仏教寺院の本山・末寺のネットワークを通じて引き続き発揮された。 ラサ政府の首相となったカンチェンネーは、清朝の命令でニンマ派を弾圧するなどの暴政を行い、他の大臣と対立した。カンチェンネーと同じく清朝寄りの姿勢を取っていた財務長官のポラネー(英語版)は、ニンマ派弾圧政策には反対したが、この対立の中、内閣を去ってツァンの自分の領地に戻った。1727年、カンチェンネーが他の大臣らによって謀殺されると、ポラネーはツァンとガリーで兵を集め、1728年にラサに入った。降伏した大臣たちは、ダライ・ラマの要望でいったん助命されたが、追って清軍が到着すると叛徒として処刑された。これ以後、清朝は二人のアンバン(駐蔵大臣)をラサに派遣し、ポラネーを首班として再編されたラサ政府を監視させた。また、パンチェン・ラマをダライ・ラマの均衡勢力とすべくツァンの統治者と定めた。ダライ・ラマ7世は、父がカンチェンネー暗殺に関与したという名目で、四川省に編入されていた東チベットのガルタルへ謹慎の憂き目に会った。1735年にラサへ帰還を果たしたが、ポラネー政権の下ではダライ・ラマに政治的実権が与えられることはなく、ダライ・ラマ7世は主として宗教的役割を果たしていた。1751年、再びダライ・ラマの政治的権威が認められ、ダライ・ラマ政権は再興されたが、ここに至ってすでにダライ・ラマの権力は5世の代と比較して極めて限定的なものとなっていた。以後、8世からの5代のダライ・ラマは政治に直接関与する機会が少なく、再びダライ・ラマが本当の意味でチベットを統治するようになるのは13世の代になってからのことである。 清の歴代皇帝の中でも特に熱心なチベット仏教徒として知られた乾隆帝は、駐蔵大臣殺害事件に関するダライ・ラマ7世の処理を高く評価し、1751年(乾隆16年)以降、駐蔵大臣の監視を条件に7世のダライ・ラマ政権の再発足を公式に認めた。 1751年、ダライ・ラマ7世の下で、再び4人の大臣(カルン)からなる内閣(カシャ)が組織され、ダライ・ラマはガンデンポタンを行政府とするダライ・ラマ政権の首長となった。1753年、ダライ・ラマ7世はポタラ宮殿内にツェ学堂を設立し、併せてノルブリンカのケルサン宮を建設した。 ダライ・ラマ7世は高名な仏教学者であり、特に密教関係に学識深く、多くの著作を残したことで知られる。詩人としての才能も優れていたが、前代のダライ・ラマ6世とは異なり、精神的なテーマを専らにした。その飾り気のない人柄と戒律を守る清廉な生き方は、当時、多くのチベット人からの敬慕を受けた。
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