ダライ・ラマ7世としてとは? わかりやすく解説

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ダライ・ラマ7世として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 07:35 UTC 版)

ダライ・ラマ7世」の記事における「ダライ・ラマ7世として」の解説

1720年チベット平定し清朝は、チベット東北部アムド地方青海にあったホシュート部にチベットハンチベット王)の選出を行うよう要請したが、ジュンガル裏切って清朝与同するに至るまでの一連の過程互いに不和となっていたホシュート部の王侯は、ラサン・ハーンを引き継ぐチベット王を一致して選択できるような状況になく、代々グシ・ハーンの子孫が継承してきたチベット王位空位の状態がつづいたこうした中、1723年青海ホシュート最長老であったログサンダンジン(ロサン・テンジン)は、チベット王の座を清朝奪われるではないか危惧し同族のエルデニエルケトクトネーを襲撃し殺害し清朝皇帝より授与され満州貴族称号捨ててダライ・ラマ由来称号名乗るという事件が起こった康熙帝摂政(デシー)を廃止し、4人の大臣(カルン)の合議制による新たなチベット政府組織させ、カンチェンネーをその首班とした。新政府内でダライ・ラマ7世父親有力な人物となったが、ダライ・ラマ自身には政治的役割与えられなかった。1722年康煕帝死去承け清朝帝位に即いた雍正帝は、チベット政策転換しすみやかに軍をラサから引き揚げさせた。1723年青海事件新皇帝は「反乱」とみなし、この年から翌1724年にかけて青海草原侵攻グシ・ハーン一族制圧し1725年から1732年にかけて青海併合はじめとしてチベット分割推し進めた雍正帝が行ったチベット分割西蔵青海甘粛四川雲南の5地域区分)は、清国滅亡中華民国時代変動期を経て、現・中共政権まで、ほぼそのまま踏襲されている。 ダライ・ラマ7世ケルサン・ギャツォは当時グシ・ハーン後継者たちには「ハン」の称号分家一族にはホンタイジ以下の各種称号および印章授与し、さらにグシ・ハーン一族の属民とされた諸侯に対して領主権認め教団の長に対して宗教指導者地位認めていた。しかし、雍正帝はこれらの権限行使停止させよう図ったまた、ダライ・ラマ中国チベット貿易対し国境のタルツェンド(四川省康定県)で隊商から徴税する権能有していたが、年間400万両賠償金引き替えに、この権能清に引き渡された。にもかかわらずダライ・ラマ権威チベット全域さらにはチベット超えて広がるチベット仏教寺院本山末寺ネットワーク通じて引き続き発揮された。 ラサ政府首相となったカンチェンネーは、清朝命令ニンマ派弾圧するなどの暴政行い、他の大臣対立した。カンチェンネーと同じく清朝寄り姿勢取っていた財務長官のポラネー(英語版)は、ニンマ派弾圧政策には反対したが、この対立の中、内閣去ってツァン自分領地戻った1727年、カンチェンネーが他の大臣らによって謀殺されると、ポラネーはツァンガリーで兵を集め1728年ラサ入った降伏した大臣たちは、ダライ・ラマ要望でいったん助命されたが、追って清軍が到着する叛徒として処刑された。これ以後清朝二人アンバン(駐大臣)をラサ派遣し、ポラネーを首班として再編されラサ政府監視させた。また、パンチェン・ラマダライ・ラマ均衡勢力とすべくツァン統治者定めたダライ・ラマ7世は、父がカンチェンネー暗殺関与したという名目で、四川省編入されていた東チベットのガルタルへ謹慎憂き目会った1735年ラサ帰還果たしたが、ポラネー政権の下ではダライ・ラマ政治的実権与えられることはなく、ダライ・ラマ7世主として宗教的役割果たしていた。1751年、再びダライ・ラマ政治的権威認められダライ・ラマ政権再興されたが、ここに至ってすでにダライ・ラマ権力5世の代と比較して極めて限定的なものとなっていた。以後8世からの5代ダライ・ラマ政治直接関与する機会少なく、再びダライ・ラマ本当の意味チベット統治するうになるのは13世のになってからのことである。 清の歴代皇帝中でも特に熱心なチベット仏教徒として知られ乾隆帝は、駐大臣殺害事件に関するダライ・ラマ7世の処理を高く評価し1751年乾隆16年以降、駐大臣監視条件に7世のダライ・ラマ政権再発足を公式に認めた1751年ダライ・ラマ7世の下で、再び4人の大臣(カルン)からなる内閣カシャ)が組織されダライ・ラマガンデンポタン行政府とするダライ・ラマ政権首長となった1753年ダライ・ラマ7世ポタラ宮殿内にツェ学堂設立し併せてノルブリンカのケルサン宮を建設したダライ・ラマ7世高名な仏教学者であり、特に密教関係に学識深く多く著作残したことで知られる詩人として才能優れていたが、前代ダライ・ラマ6世とは異なり精神的なテーマ専らにした。その飾り気のない人柄戒律を守る清廉な生き方は、当時多くチベット人からの敬慕受けた

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