ダライ・ラマらチベット高僧を利用した宣伝(1988年)
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「オウム真理教の歴史」の記事における「ダライ・ラマらチベット高僧を利用した宣伝(1988年)」の解説
1988年(昭和63年)頃、麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポに接触し、自分の瞑想体験の成果をチベット仏教の先生に見てもらいたい、というのでギャルポはダラムサラに紹介した。現地の長老たちは、一緒に瞑想すると、かなりの者ということになり、ダライ・ラマに会うことになった。ダラムサラは、麻原の傲慢さを察知し、法王の監督の下におければと思い、面会させたともいう。麻原は訪問前に10万ドルをダラムサラに寄付し、その後、150万ドル以上の寄付をした。 1988年3月、麻原はカギュ派のカル・リンポチェ師を訪問する。同師は麻原が修行体験について質問すると「体験は解脱ではない」と繰り返し戒めるかのように語りながら、「ヴァジラヤーナ(金剛乗)」の教えには、他に手段が無ければ、大きな悪を働こうとしている人を殺すことを肯定する場合があるとも話した。通訳だった上祐によれば、この時以来、麻原は「ヴァジラヤーナ」という言葉を盛んに使い始めた。カギュ派には、グルへの帰依が強調される中で、グルの指示で王族を襲ったとか、他人の物を盗んだとかいう逸話があり、オウムで使われたマハームドラーという言葉もカギュ派の最高の修行法である。 1988年7月6日にはダライ・ラマ14世と会っている。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「ねえ君、今の日本の仏教を見てみたまえ。あまりにも儀式化してしまって、仏教本来の姿を見失ってしまっているじゃないか。これじゃあいけないよ。このままじゃ、日本に仏教はなくなっちゃうよ。」「君が本当の宗教を広めなさい(中略)君ならそれができる。あなたはボーディ・チッタ(仏陀の心)を持っているのだから」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した。 インドから帰国直後の1988年7月21日に、麻原は元幹部との極秘会話でヴァジラヤーナは救済するために本当に必要な力、仏陀の持つ神秘的な力を身につけることによって一日も早く救済を成功させる道である、「グルのいったことは絶対であるとかね、あるいはグルのためには殺生ですらしなければならないとかね。例えば、大乗の戒において、ここで五百人の衆生が苦しむんだったら、殺されるんだったら、その殺す人を殺しても構わない」と語り、後に実行される殺害行為を正当化することをすでにこの時に語っていた。 1988年8月に富士山総本部道場の落成記念イベントに招待されたカル・リンポチェ師は、麻原を「偉大な仏教の師」と称賛し、「あなた方のグルに奉仕し、そして彼がするようにといったことは何でもするようにしなさい」と説法し、自分をミラレパに、麻原をカギュ派を拡大したガンポパに例えた。師の麻原への評価がインドでの評価より格段に高くなったことに麻原は驚き、「私に多くの信者がいることを見たからではないか」と推察した。上祐はじめ多くの信者はカル・リンポチェ師の称賛を理由に麻原への帰依を強め、中沢新一も「カル・リンポチェ師は簡単にだませる人ではない」とオウムを肯定する根拠とした。 1989年11月に坂本弁護士一家失踪事件が起きると、ペマ・ギャルポが被害者の会と接触し、未成年者の入会、弁護士一家失踪、血のイニシエーションの話を聞いたペマは危機感を強め、チベット亡命政府に麻原と関係を持たないように助言した。これに怒った麻原は雑誌や本などでペマを「妨害した」「卑劣極まる」と非難した。ペマは麻原とテレビで共演し、「最終解脱者はダライ・ラマも言っていないし、それを自称するのはおかしい。チベットでも日本でも、最終解脱者を名乗った宗教家はいない。名乗るならば麻原教を名乗ればよく、仏教をやめるのはおやめなさい」、ダライ・ラマ法王は『すべての人々は仏陀になれる。仏性を持つ』と麻原にいったのであり、麻原が仏陀だとはいってないし、そもそも法王も自分が仏陀だとはいっておらず、『(自分は)ただ一人の僧侶にすぎない』と、いつもいう。その法王があなたのことを仏陀だとおっしゃるはずがない」と言ったら、麻原は怒った。ペマによれば、血のイニシエーションはチベットの僧侶の誰も聞いたことがなく、また、教団でシヴァ神が祭られているのは奇妙で、麻原がテレビ出演の際に世俗の権威を象徴するような大きな椅子に座っていたことにも疑問を抱いた。1989年12月のダライ・ラマ14世ノーベル平和賞受賞式に麻原は招待されなかった。 衆議院選惨敗後の1990年3月9日、「被害者の会」の永岡弘行やジャーナリストの江川紹子らがチベット亡命政府宗教文化庁次官カルマ・ゲーリックに面会すると、オウムが法王の発言として宣伝しているのは「ありえない。嘘だ」「ダライラマが、麻原に仏陀の素質があるなどと発言するわけがない」と回答し、「麻原の活動について我々はほとんど知らない。直接的にも間接的にも、我々はオウムと無関係である。麻原が法王と会ったのは確かだが、それを麻原が利用するのは間違っている。」「麻原は仏教を学びに来た者の一人に過ぎない。ダライラマは何万人に仏の教えを説いており、麻原だけに特別に教えるようなことはない」とした上で、麻原が仏教の教義に沿った活動をするつもりがあるなら、ダライラマセンター支部を日本に作り、そこで麻原を正しい道に導く努力はできると答えた。また、ゲーリックは、オウムが未成年から金をとったり、逃げた人を独房に監禁することに驚き、「仏教では未成年が出家する時には、両親の許可が必要だ」「麻原が道を踏み外したことも十分考えられる」と答えた上に、麻原の教団名も知らなかった。またこの取材で麻原がインド訪問時にニューデリーで最高級のホテルハイアット・リージェンシー・ホテルに宿泊していたことも判明しており、教団が「尊師は今でも毛布一枚で畳の上に寝られるほど質素であられる。それは(略)『自己のために布施を使うくらいなら、信徒の方々が思う存分修行ができる道場に充てたい』という尊師の願いがあるからなのだ」と信者に説明 していたこととの矛盾も指摘された。これらは週刊文春1990年3月29日号で報道された。 報道後の4月4日、麻原は富士山総本部で、3月16日にダライ・ラマ政庁に手紙で問い合わせたところ、「カルマ君」(ゲーリックを指す)は3月27日付け手紙で「わたしが言ったとされていることの九九パーセントは、全く本当のことではない」「自尊心を持つ人間なら、だれでも永岡氏とその一行を訴えたことでしょう」「日本の社会および政府がこのように無責任で程度の低い公共のメディアを野放しにしているとは全くショックなことです」と書かれていたと弟子たちに報告した(ただし、このゲーリックの手紙は麻原の説法以外で確認されていない)。麻原は、シヴァ神や仏陀への完壁なる信、あるいは完壁なる帰依からすると本件はどうでもいいことだと述べながら、聖者や修行者を誹謗した被害者の会やマスコミにはどういうカルマが返ってくるか、バッシング報道で「オウムへの信がなくなって落ちていった人」(脱会者)がいるが、彼らはチベット仏教に帰依していたのか、だとしたらオウム真理教に入信すべきではない、情報はわたしたちを苦しみの世界に叩き込むと述べ、麻原が帰依するカルマの法則は絶対だから、被害者の会もマスコミも墓穴を掘るだろう、と説いた。翌月には被害者の会やマスコミが地獄へ落ちるのは、仏陀と宇宙の秩序が約束した絶対的な真理だと説いた。1990年5-6月に撒かれたチラシでは、オウムがダライ・ラマを悪用したという記事は、「マスコミ、被害者の会、江川紹子が仕組んだ捏造記事」と主張した。教団はゲーリック報道などに関して江川紹子と出版社を訴えたが、判決では名誉毀損に当たらないとされた。この頃、全世界にボツリヌス菌を撒いてポアすると言い始め、本格的な武装化を開始した。 当時通訳も担当していた上祐によれば、オウムバッシングの際、麻原はダライ・ラマ法王にオウムを擁護する公式な書簡を要請したが、法王とオウムは個人的な友人関係での交流であり、組織の活動内容はよく知らない、以前別の日本の宗教団体が法王を利用した苦い経験があることを理由に法王は断った。その後、法王サイドが「オウム真理教は、大乗仏教の伝統を推進し、チベット難民のためにおしみなく援助している」といった公式の簡潔な1989年5月26日付け親書を作成したが、これは多額の寄付への感謝の意であり、麻原の神秘力などについての言及はなく、ダライ・ラマは麻原を宗教家として特別視することはなかった。 オウム真理教は教団の権威づけに多くのチベットの高僧やインドの修行者と接触し宣伝材料として利用していたが、事件後に行われたマスコミの取材に対して、オウム真理教から接触があった高僧や修行者は軒並み深い関係を否定している。 地下鉄サリン事件後の1995年4月5日に来日したダライ・ラマ14世は記者会見で「(麻原と)会ったことはあるが、私の弟子ではない。彼は宗教より組織作りに強い興味を持っているという印象が残っている。私に会いに来る人には誰でも友人として接している。しかし、オウム真理教の教えを承認してはいない。私は超能力や奇跡には懐疑的だ。仏教は、一人の指導者に信者が依存し過ぎるべきではないし、不健全だ」、「麻原を支持したのは、私の無知による間違いだった。これが私が生きた仏ではないことを示している」と語った。 また麻原は著書で「チベット亡命政府宗教大臣カムトゥール・リンポチェからイェシェー(完全な神の叡智)の段階にあると称賛された」と書いていたが、カムトゥール・リンポチェは「信じられないことだ。確かに二度、麻原に会ったのを覚えている。利用されたとすれば残念だ」と後に語っている。 江川紹子は「多額の寄付をしてもらえば、普通お礼はするし、多少のリップサービスをすることもある」とし、麻原はそれを利用し、オウムの権威や信用を高めようとしたと指摘する。上祐ものちの総括において、麻原はチベット高僧の権威を利用して宣伝に用い、またチベット高僧も麻原も人間であり、盲信してはならないと反省するようになったという。
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