ダライ・ラマ6世の廃位とその後継者たちとは? わかりやすく解説

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ダライ・ラマ6世の廃位とその後継者たち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 07:35 UTC 版)

ダライ・ラマ7世」の記事における「ダライ・ラマ6世の廃位とその後継者たち」の解説

ダライ・ラマ6世は僧としての生活になじめず、1702年沙弥戒の返上還俗)を宣言しときおり市街で歌を作って楽しむなどしてチベット民衆親しまれた。しかしオイラトホシュート部を率いるラサン・ハーンは摂政サンギェ・ギャツォと対立し1705年ラサ進軍すると、2年前に摂政引退していたサンギェ・ギャツォを殺害ダライ・ラマ6世放蕩口実にして翌1706年、6世を廃位した。同年、6世は北京へ向かう護送途次死去している。 後世チベット人は、6世が次のような歌を書いて自身リタン転生することを予言した信じている。 白いよ、翼を貸しておくれ わたしは遠く行ってしまうのではない リタン巡って戻ってくるのだ ホシュート部によるグシ・ハン王朝のラサン・ハーン(英語版)は、デシー(摂政)のサンギェ・ギャツォと決裂し、デシーおよびかれの養育してきたダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォを排除することで清の歓心を買う策に転じていた。ラサン・ハーンは代わりの「ダライ・ラマ6世」として1705年生まれのガワン・イェシェー・ギャムツォ(英語版)(1705年-1717年)を擁立し清朝もイェシェー・ギャムツォに称号印章贈った。ラサン・ハーンは、中央チベットの地を押さえ清朝支持得たことでチベットハン権力大い増大させたものの、イェシェー・ギャムツォは必ずしもチベット人支持得られたわけではなかった。 一方、ラサン・ハーンによる一連の強硬な措置は、むしろきわめて強い一族内の反発招いたグシ・ハーン傍系一族たちは、ジュンガル部結託してラサン・ハーンと対抗、そして死去していた6世の転生者としてリタン出身少年ダライ・ラマとして擁立されたのである

※この「ダライ・ラマ6世の廃位とその後継者たち」の解説は、「ダライ・ラマ7世」の解説の一部です。
「ダライ・ラマ6世の廃位とその後継者たち」を含む「ダライ・ラマ7世」の記事については、「ダライ・ラマ7世」の概要を参照ください。

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