ダライ・ラマ6世の廃位とその後継者たち
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「ダライ・ラマ7世」の記事における「ダライ・ラマ6世の廃位とその後継者たち」の解説
ダライ・ラマ6世は僧としての生活になじめず、1702年に沙弥戒の返上(還俗)を宣言し、ときおり市街で歌を作って楽しむなどしてチベットの民衆に親しまれた。しかしオイラトのホシュート部を率いるラサン・ハーンは摂政サンギェ・ギャツォと対立し、1705年にラサに進軍すると、2年前に摂政を引退していたサンギェ・ギャツォを殺害、ダライ・ラマ6世の放蕩を口実にして翌1706年、6世を廃位した。同年、6世は北京へ向かう護送の途次で死去している。 後世のチベット人は、6世が次のような歌を書いて、自身がリタンに転生することを予言したと信じている。 白い鶴よ、翼を貸しておくれ わたしは遠くに行ってしまうのではない リタンを巡って戻ってくるのだ ホシュート部によるグシ・ハン王朝のラサン・ハーン(英語版)は、デシー(摂政)のサンギェ・ギャツォと決裂し、デシーおよびかれの養育してきたダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォを排除することで清の歓心を買う策に転じていた。ラサン・ハーンは代わりの「ダライ・ラマ6世」として1705年生まれのガワン・イェシェー・ギャムツォ(英語版)(1705年-1717年)を擁立し、清朝もイェシェー・ギャムツォに称号と印章を贈った。ラサン・ハーンは、中央チベットの地を押さえ、清朝の支持を得たことでチベット=ハンの権力を大いに増大させたものの、イェシェー・ギャムツォは必ずしもチベット人の支持を得られたわけではなかった。 一方、ラサン・ハーンによる一連の強硬な措置は、むしろきわめて強い一族内の反発を招いた。グシ・ハーンの傍系の一族たちは、ジュンガル部と結託してラサン・ハーンと対抗、そして死去していた6世の転生者としてリタン出身の少年がダライ・ラマとして擁立されたのである。
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