ダライ・ラマ5世と他宗派
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「ダライ・ラマ5世」の記事における「ダライ・ラマ5世と他宗派」の解説
ダライ・ラマの宗派はゲルク派であったが、ダライ・ラマ5世は他の宗派と必ずしも険悪であったわけではない。 政権獲得当初は、いくつかの有力な寺院をゲルク派に改宗させた。しかしゲルク派による支配体制が確立してからは、むしろ他の宗派の文化を守った。まず、最大の政敵であったカルマ派の寺院からはほとんどの財産を奪ったが、カルマ派が力をあらかた失ったことを確認した後は、寺院の再興を許した。また、実家の宗派でもあったニンマ派を厚く保護し、ゲルク派の守旧派からの不審を招くほどであった:260。それがシュクデン問題としてチベット近現代史に影を落としている。サキャ派も保護を受けた。サキャ派は時にゲルク派と教義上の論争をすることもあったが、ダライ・ラマ5世はそれを問題とせず、多くの寺院がダライ・ラマ5世の時代に復興している:261。1669年頃にはサキャ派のタンカ製作に資金援助を行っている:132。 ただし、全ての宗派に対して寛容であったわけではない。カギュ派の一派であるチョナン派は冷遇され、総本山を除いてすべてゲルク派の施設に変更された:261。
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