衆議院選惨敗
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1989年の参院選でマドンナ旋風が沸き起こったことから、1990年2月に行われる衆院選に、当初麻原は石井久子をはじめとした女性信者を出馬させる構想を立てた。その後麻原自身が徳によって政を行い、地上に真理を広めるために1990年(平成2年)には真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙へ麻原と信者24人 が集団立候補。選挙に立候補するかどうかはオウムとしては珍しく幹部による多数決が採られた。結果は10:2で賛成派が勝利。反対した2人は上祐史浩と岐部哲也であった。 真理党の政策は、消費税廃止などで、徹底的な行政改革によって財源をひねり出すとし、ほか医療、教育改革、大統領制、国民投票制導入などを主張した。選挙活動の際には信者が麻原のお面やガネーシャの帽子をかぶり、尊師マーチなど教祖の歌を歌うといった派手なパフォーマンスなど奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビで報道され、徐々に知名度が上がっていく。この時には公職選挙法で定められた時間帯を大きく超える16時間/日に及ぶ街頭宣伝運動を繰り広げ、麻原彰晃の写真入りビラやパンフレット、雑誌を選挙区中に撒き、麻原そっくりのお面を大量に作って運動員に被らせた。これは違法で警視庁から警告を受けたが、運動にかり出された元信者は「もしも誰かから注意されたりしたら、『これは布教活動です』と言って逃れるように」と指示を受けていた。また他の候補者のポスターを剥がす、汚損するなどを麻原自身が勧め、深夜に信者を使って他の候補者を中傷するビラを配布させた。教団が特に敵視した石原伸晃のポスターを剥がしたりスプレーを吹きつけたりし、「サンデー毎日にオウムバッシングをさせたのが石原だ」と大師は信者に説明した。 しかし、2月18日の選挙の結果は、最も得票の多かった麻原でさえ1,783票 で惨敗だった。当時立候補者1人あたり200万円だった供託金として計5,000万円が没収される。選挙敗北で脱会者が続出し、麻原は「教団はもう無理かな。お金もないし」と呟いた。 選挙翌日の2月19日の富士山総本部道場での説教では、社会・国家に負けたとし、選挙管理委員会のトリックによって1万数千票あったはずの票が出されず千数百票になったことが「国家に負けた」ということだ、つまり「票に操作がなされた」と説教した。さらに「オウムは反社会・反国家である」と宣言し、私腹を肥やす大企業は餓鬼・地獄へ落ちていくが、「ドブ川の中で美しく咲く蓮華のようにあり続けるためには、反社会でなければならない。よって国家・警察・マスコミ、これ全て、これからも敵に回っていくだろう」、その後さらに、1989年9月に「ドンと妙なエネルギーが入ってきた。そして、イエス・キリストになれという言葉があった」と告白し、これは「さらし者になれ」という意味で、サンデー毎日のバッシングを指すと説教した。麻原は幹部上祐にも「自分は、弾圧されるが、戦って勝利するキリストだ」と語っていた。選挙での惨敗が麻原の被害者意識をより一層高め、非合法活動を更にエスカレートさせたといわれている。
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