衆議院選挙戦
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1894年(明治27年)第3回衆議院選挙の際、自由党が岡田逸治郎を擁立し甲賀郡を基盤とする前議員林田騰九郎と激突した。林田は、かって改進党系政社といわれる近江同致会の創立式(明治24年4月)に出席したことがあり、前議会においても改進党に近い立場で活動していた。このような中で、自由党の甲賀郡内での選挙活動には多大な困難をともなった。自由党は、水口町(現甲賀市)において演説会を開催しようとしたが、反対派の妨害のため会場を求められず困惑していた。その時旅館丸金楼の主人が、会場の提供を申し出て、旅館の壁をぶち抜き畳をはずしようやく開催にこぎつけた。しかし、演説会当日反対派の偽電報によって党首板垣退助が来訪できず、他の弁士の演説後事情を説明して明日は必ず板垣が来ることを聴衆に約束した。ところが、翌日反対派が水口駅の人力車を全部借り上げたため、板垣はやむなく草津駅から差し廻しの人力車で来場し演説を行ったと伝えられている。激しい選挙戦の結果、岡田逸治郎は、甲賀郡内で約200票を獲得、二区全体では1,977票となり、1,939票の林田騰九郎を大接戦の末破って当選を果した。
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