下関での交渉と李鴻章狙撃事件
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「下関条約」の記事における「下関での交渉と李鴻章狙撃事件」の解説
「李鴻章狙撃事件」も参照 1895年3月、日本軍は遼東湾岸に達し、3月6日には営口・田庄台(中国語版)を占領した。ここで従来案にみえた直隷決戦の可能性も出てきたが、決戦派だった山県有朋もこの頃には決戦回避に転じていた。 その後、清国はアメリカ合衆国を介して李鴻章を欽差頭等全権(第一等の天子の使臣)とする使節団の派遣を日本に申し入れてきた。日本政府としては結局、遼東半島と威海衛を完全に制圧したうえで、清国側の講和申し入れを受け容れたのである。会談地として山口県下関を指定した。このたびは李鴻章に敬意を払い、前回のように広島に呼びつけるような非礼は避けたのであった。 3月14日、ドイツ船で天津を発した全権大臣李鴻章とその甥で養子の李経方は、3月19日伍廷芳や李鴻章の顧問ジョン・W・フォスター(前アメリカ国務長官)ら随員125名とともに福岡県門司港(現、北九州市)に到着した。李鴻章が外国を訪問したのは、これが初めてのことであり、このことは欧米のメディアでも報じられた。翌3月20日、使節団は対岸の本州赤間関(下関)に上陸し、同地の割烹旅館藤野楼(春帆楼)において、日本側全権の伊藤博文および陸奥宗光との間で全権委任状を持っていることを互いに確認し、講和交渉が始まった(第1回会談)。 前回の広島談判において、日本側は清国使節の持参した委任状を問題視したのであったが、これは世界的には、むしろ不評を買っていた。第一次使節が全権委任を証明するのに瑕疵があったのは確かではあるが、アヘン戦争以来、清国が外国と結んだ膨大な数の条約にはそのような事例は数多くあり、とりわけ、使節の資格が問題になることはきわめて稀であり、諸外国からは露骨に交渉を引き延ばしたうえで自国有利に武力行使を展開しているようにみられたからであった。なお、李鴻章ら清国使節は、会談が済めば船に帰り、船中泊することとなっていたが、日本側は、それでは不便であろうと気を遣い、赤間関の浄土宗寺院、引接寺を一行の宿舎に供した。下関春帆楼での条約交渉は、前後7回におよんだ。第1回会談では、伊藤博文と李鴻章は1885年の天津条約以来の旧知の間柄であり、李は日本の近代化の進展を高く評価し、その指導者としての伊藤の実績を賞賛し、「今次の日清戦で清国が長い間の迷夢を日本によって破られたことに感謝する」と述べたうえで、「今後は西洋列強の圧力に対し、日清両国は兄弟のごとく連携しなければならない」と語るなど、終始和やかなようすで交渉が始まった。陸奥外相は、李の印象として「古稀以上の老齢に似ず容貌魁偉言語壮快で、人を圧服するに足りる」ものがあると記し、李の老獪さも看取して「さすがに清国当世の一人物に恥じず」と評価している。 この交渉に先だって陸奥は「時間はたっぷりあるのでゆっくりと話し合おう」と清国側に呼びかけた。しかし、陸奥本人としては内心ヨーロッパ諸国の干渉が気がかりで、実は一刻も早い講和成立を念頭に置いていた。李鴻章が列強の干渉の動きに気づけば、交渉を延引させたり、あるいは破談に持ち込んで清国に引き上げてしまうことも考えられたので、決して急いではいないというポーズをあえてとったのである。 イギリスは日清両国が排他的な同盟を結べば、たとえば香港の繁栄が危ぶまれることから、おおいにこれを警戒し、日清同盟に対して断固反対を唱えた。青木駐英公使は、日清同盟となる可能性はまったくないことをイギリス側に説明し、これによりイギリスからの干渉の可能性は大幅に減じた。ロシアはフランスと結び、日本が清国に対して過大な要求を突きつけた場合には共同で干渉することを協議していた。ドイツはイギリスと共同して干渉することをイギリスに提案したが、上記のようないきさつでイギリスがこの申し出を断ったため、ドイツはいきおい露・仏の側に接近したのであった。李鴻章も恭親王もさかんに諸外国への働きかけをおこなっていたものの、列強のこうした動向をよく把握できていなかった。 清国側は第1回会談において、まず日清間の一刻も早い休戦を強く望んだ。しかし、伊藤博文は、これを認めなかった。伊藤は比志島義輝大佐が率いる歩兵1個旅団(混成支隊)が台湾西方の澎湖諸島を制圧し、台湾上陸の足がかりを確保するのを待っていた。 日本側は、翌3月21日の第2回会談において、休戦の条件として、 大沽・天津・山海関の保障占領 同地の清国軍の武装解除、軍需の引き渡し 天津・山海関の鉄道を日本軍の支配に委ねること 休戦中の軍事費はすべて清国が負担すること の4条件を提示した。これについては、さすがの李鴻章も顔面蒼白となって「苛酷、苛酷」と叫び、前日の休戦申し入れを撤回した。李鴻章としては、すでに日本軍が占領した営口・田荘台の線で停戦し、担保としてそれに若干の地域の保障占領を許すことは考えていたが、日本側の条件はそれをはるかに上回り、想定外に厳しいものだったのである。 日本としては、当面は休戦の必要がないことから、講和条件の方を先議しようと考え、そのため清国にとっては苛酷であることを承知のうえでこのような条件を出したのであった。日本側全権は、休戦なしに講和の話し合いに入ってもよいし、休戦してからでもよいが、その場合は上記4条件を呑んだときだけであって他に代案はないと述べた。清国側は、それでは講和条件案を指し示して欲しいと求めると、清国が休戦提案を撤回しない限り講和条件案は出せないと応答し、そして、いったん撤回したならば休戦について再び話し合うことはできないと付言した。継戦しながらの交渉か、4条件丸呑みの休戦かの二者択一を迫ったわけである。李鴻章は「日本側がもし両国の和平を真に望むなら、清国の名誉についても少し配慮してもらいたい」と懇願し、日本側はこれに対し、講和条件先議の件について清国側に3日間の猶予をあたえた。 その間、日本側は比志島混成支隊が3月23日に澎湖諸島に上陸し、台湾攻略の前進基地とした。台湾割譲を講和条件に入れるには、正式交渉開始までの占領が必要であり、台湾島付属の澎湖諸島の占領は、その条件を満たす前提であった。 猶予期間を終えた3月24日の第3回会談に際して、清国側は休戦交渉を撤回して講和条約の締結を望むと返答した。その日、日本は小松宮彰仁親王を征清大総督に任じたが、会談自体は早く終わって陸奥と李経方の事務的な打ち合わせがなされるだけとなった。陸奥と李経方は次席全権同士で、李経方は駐日公使を務めた経験があり、日本語も流暢で、陸奥とは以前より面識があったので、李経方のみ残って、李鴻章と随員一行は宿舎の引接寺に帰ることとなった。随員たちは人力車で帰り、李鴻章は輿に乗って移動した。 ところが、引接寺までもう少しというところで、輿に乗っていた李鴻章が、講和に反対する一日本人青年によりピストルで近距離から狙撃される事件が起こったのである。この青年は、李鴻章こそ東洋に正義をなさんとする日本の邪魔をする元凶であると考えた自由党の壮士、小山豊太郎(六之助)であった。胸を狙われた李鴻章は一命を取り留めたものの、眼鏡が割れ、左眼下に重傷を負った。引接寺では中国人医師より救急治療が施された。一報を受けた李経方は早急に引接寺に戻り、伊藤首相・陸奥外相・伊東巳代治内閣書記官長はすぐに見舞いに行った。そのとき李鴻章は、「このようなことは、多少、覚悟して来ましたよ」と語ったといわれている。日本では4年前の1891年、来日していたロシア皇太子が警官に襲撃される大津事件が起こっていた。日本にとって下関講和会議は、戦争をつづけながら交渉するというきわめて有利な状況下での会議であった。しかし、この李鴻章狙撃事件はそうした両国の力関係を一挙に覆しかねない出来事であった。 この事件に対し、当時の日本国民の多くは痛嘆し、あるいは狼狽した。全国から個人・団体を問わず、電報や郵便で見舞いの意を表し、各種の贈り物を届けた。また、それまで李鴻章にさかんに悪口雑言を吐いていた人士も、事件後は美辞をならべて功績を賞賛するなどの豹変ぶりを示した。清の交渉団の宿には「群衆市をなす」と形容されるほどの人が集まり、日本国民全体が李に同情しているかのようであった。日本政府は、野戦衛生長官の石黒忠悳と外科の専門家の佐藤進陸軍軍医総監の両博士のほか名だたる専門医を下関に送り、またフランス公使館付の医師も招かれた。明治天皇と昭憲皇后は、李鴻章見舞いのために侍従武官の中村覚を派遣し、とくに皇后は御製の繃帯を届けている。原保太郎山口県知事はその責めを負って知事を辞任し、山口県警察部の後藤松吉郎もまた部長職を解任された。天皇による異例の勅語も発せられた。日本側は、あらゆる手段を講じて国際世論からの非難をかわそうと尽力したが、李鴻章もまたしたたかで、自身に起こった災厄を清国にとっての利益に転換させようと図った。 この事件により李鴻章が交渉の席を蹴って帰国する怖れがないわけではなかった。講和交渉の使節に危害を加えるような国で交渉継続は無理であるという説明は、世界中の人々を納得せしめるものであり、継戦は可能であるとはいえ、その場合、世界は日本の戦争を不義の戦いとみるであろうことが予想された。小松宮率いる征清軍が出征すれば、今度は日本国内を防衛する兵士が不在となり、このことは各国公使が本国に報告していた。このとき、日本は他国の干渉に最も脆弱な状態にあったのである。戦勝国民が講和使節を殺害しようとする不祥事に各国の同情も必ずや清国に集まり、第三国の干渉を招く事態になること必至であると判断した陸奥外相は、即座に手を打ち、清がいま最も望んでいるはずの即時停戦を日本側のリーダーシップによっていち速く実現すべきことを伊藤に訴えた。伊藤はこれを受けて、反対する日本軍部を数日間でまとめ、かなり早い段階でこれを清に伝え、李鴻章狙撃事件のダメージを最小限にとどめることとした。とはいえ、軍部は無条件停戦に対しては頑強に反対した。伊藤は天皇をも動かして3月27日に勅許を得た。また、3万のロシア軍が清国の北方に移動するという軍事情報が入ったことで山県有朋もようやく休戦に同意したのであった。また、ダン駐日アメリカ公使も林董外務次官に無条件停戦を助言しており、林はそれを陸奥に報告していた。 李鴻章は銃弾摘出手術を断って交渉継続の意思を示した。李は、時間の浪費は許されないと考え、交渉終了後に手術することに決めたのであった。もし、李鴻章がロシア軍が動いていることを知っていたならば、手術を理由に交渉を引き延ばすことも考えられた。 3月28日、日本側は休戦条約の草案を病床の李鴻章に提示したが、清側が「台湾、澎湖列島およびその付近において交戦に従事する所の遠征軍を除く他」の文面の訂正を求めたのに対し、日本側は「日清両帝国政府は盛京省・直隷省・山東省地方に在て下に記する所の條項に従ひ両国海陸軍の休戦を約す」という文面に変更することとして両者が合意に達し、3月30日、休戦条約が締結され、日本は無条件で3週間の即時休戦に応じた。
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