下関での交渉と李鴻章狙撃事件とは? わかりやすく解説

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下関での交渉と李鴻章狙撃事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:55 UTC 版)

下関条約」の記事における「下関での交渉と李鴻章狙撃事件」の解説

李鴻章狙撃事件」も参照 1895年3月日本軍遼東湾岸に達し3月6日には営口田庄台(中国語版)を占領した。ここで従来案にみえた直隷決戦可能性出てきたが、決戦派だった山県有朋この頃には決戦回避転じていた。 その後清国アメリカ合衆国を介して李鴻章を欽差頭等全権第一等の天子使臣)とする使節団派遣日本申し入れてきた。日本政府としては結局遼東半島威海衛を完全に制圧したうえで、清国側講和申し入れを受け容れたのである会談地として山口県下関指定したこのたび李鴻章敬意払い前回のように広島呼びつけるような非礼避けたであった3月14日ドイツ船で天津発した全権大臣李鴻章とその甥で養子李経方は、3月19日伍廷芳李鴻章顧問ジョン・W・フォスター(前アメリカ国務長官)ら随員125とともに福岡県門司港(現、北九州市)に到着した李鴻章外国訪問したのは、これが初めてのことであり、このことは欧米メディアで報じられた。翌3月20日使節団対岸本州赤間関下関)に上陸し同地割烹旅館藤野春帆楼)において、日本全権伊藤博文および陸奥宗光との間で全権委任状持っていることを互いに確認し講和交渉始まった第1回会談)。 前回広島談判において、日本側は清国使節持参した委任状問題視したのであったが、これは世界的には、むしろ不評買っていた。第一次使節全権委任証明するのに瑕疵があったのは確かではあるが、アヘン戦争以来清国外国結んだ膨大な数の条約にはそのような事例数多くあり、とりわけ使節資格問題になることはきわめて稀であり、諸外国からは露骨に交渉引き延ばしたうえで自国有利に武力行使展開しているようにみられたからであった。なお、李鴻章清国使節は、会談が済めば船に帰り船中泊することとなっていたが、日本側は、それでは不便であろう気を遣い赤間関浄土宗寺院引接寺一行宿舎供した下関春帆楼での条約交渉は、前後7回におよんだ第1回会談では、伊藤博文李鴻章1885年の天津条約以来旧知間柄であり、日本近代化進展高く評価し、その指導者としての伊藤実績賞賛し、「今次日清戦で清国長い間迷夢日本によって破られたことに感謝する」と述べたうえで、「今後西洋列強圧力対し日清両国兄弟のごとく連携しなければならない」と語るなど、終始和やかなようすで交渉始まった陸奥外相は、印象として「古稀上の老齢似ず容貌魁偉言語壮快で、人を圧服するに足りる」ものがあると記し老獪さも看取して「さすがに清国当世一人物に恥じず」と評価している。 この交渉に先だって陸奥は「時間はたっぷりあるのでゆっくりと話し合おう」と清国側呼びかけた。しかし、陸奥本人として内心ヨーロッパ諸国干渉気がかりで、実は一刻早い講和成立念頭に置いていた。李鴻章列強干渉動きに気づけば、交渉延引させたり、あるいは破談持ち込んで清国引き上げてしまうことも考えられたので、決し急いではいないというポーズをあえてとったのであるイギリス日清両国排他的な同盟結べば、たとえば香港繁栄危ぶまれることから、おおいにこれを警戒し日清同盟に対して断固反対唱えた青木駐英公使は、日清同盟となる可能性はまったくないことをイギリス側説明し、これによりイギリスからの干渉可能性大幅に減じたロシアフランスと結び、日本清国に対して過大な要求突きつけ場合には共同干渉することを協議していた。ドイツイギリス共同して干渉することをイギリス提案したが、上記のようないきさつイギリスがこの申し出断ったため、ドイツいきおい露・仏の側に接近したであった李鴻章恭親王さかんに諸外国への働きかけをおこなっていたものの、列強こうした動向をよく把握できていなかった。 清国側第1回会談において、まず日清間の一刻早い休戦強く望んだ。しかし、伊藤博文は、これを認めなかった。伊藤比志島義輝大佐率い歩兵1個旅団混成支隊)が台湾西方澎湖諸島制圧し台湾上陸足がかり確保するのを待っていた。 日本側は、翌3月21日第2回会談において、休戦条件として、 大沽天津山海関保障占領 同地清国軍の武装解除軍需引き渡し 天津山海関鉄道日本軍支配委ねること 休戦中の軍事費はすべて清国負担すること の4条件提示した。これについては、さすがの李鴻章顔面蒼白となって苛酷苛酷」と叫び前日休戦申し入れ撤回した李鴻章としては、すでに日本軍占領した営口田荘台の線で停戦し、担保としてそれに若干地域保障占領を許すことは考えていたが、日本側の条件はそれをはるかに上回り想定外厳しいものだったのである日本としては、当面休戦必要がないことから、講和条件の方を先議しようと考え、そのため清国にとっては苛酷であることを承知のうえでこのような条件出したであった日本全権は、休戦なしに講和話し合い入ってもよいし、休戦してからでもよいが、その場合は上記4条件呑んだときだけであって他に代案はないと述べた清国側は、それでは講和条件案を指し示して欲しいと求めると、清国休戦提案撤回しない限り講和条件案は出せないと応答し、そして、いったん撤回したならば休戦について再び話し合うことはできない付言した。継戦しながら交渉か、4条件丸呑み休戦かの二者択一迫ったわけである。李鴻章は「日本側がもし両国和平真に望むなら、清国名誉についても少し配慮してもらいたい」と懇願し日本側はこれに対し講和条件先議の件について清国側3日間の猶予あたえたその間日本側は比志島混成支隊3月23日澎湖諸島上陸し台湾攻略前進基地とした。台湾割譲講和条件入れるには、正式交渉開始まで占領が必要であり、台湾島付属澎湖諸島占領は、その条件を満たす前提であった猶予期間終えた3月24日第3回会談に際して清国側休戦交渉撤回し講和条約の締結を望むと返答したその日日本小松宮彰仁親王を征清大総督任じたが、会談自体早く終わって陸奥李経方事務的な打ち合わせなされるだけとなった陸奥李経方次席全権同士で、李経方駐日公使務めた経験があり、日本語流暢で、陸奥とは以前より面識があったので、李経方のみ残って李鴻章随員一行宿舎引接寺帰ることとなった随員たちは人力車帰り李鴻章は輿に乗って移動した。 ところが、引接寺までもう少しというところで、輿に乗っていた李鴻章が、講和反対する一日本人青年によりピストル近距離から狙撃され事件起こったのである。この青年は、李鴻章こそ東洋正義をなさんとする日本の邪魔をする元凶であると考えた自由党壮士小山豊太郎(六之助)であった。胸を狙われ李鴻章一命取り留めたものの、眼鏡割れ左眼下に重傷負った引接寺では中国人医師より救急治療施された。一報受けた李経方早急に引接寺戻り伊藤首相陸奥外相伊東巳代治内閣書記官長はすぐに見舞い行ったそのとき李鴻章は、「このようなことは、多少覚悟して来ましたよ」と語ったといわれている。日本では4年前の1891年来日していたロシア皇太子警官襲撃される大津事件起こっていた。日本にとって下関講和会議は、戦争をつづけながら交渉するというきわめて有利な状況下での会議であった。しかし、この李鴻章狙撃事件はそうした両国力関係一挙に覆しかねない出来事であった。 この事件対し当時日本国民多く痛嘆し、あるいは狼狽した全国から個人・団体問わず電報郵便見舞いの意を表し各種贈り物届けたまた、それまで李鴻章さかんに悪口雑言吐いていた人士も、事件後は美辞ならべて功績賞賛するなどの豹変ぶり示した。清の交渉団の宿には「群衆市をなす」と形容されるほどの人が集まり日本国民全体同情しているかのようであった日本政府は、野戦衛生長官石黒忠悳外科専門家佐藤進陸軍軍医総監の両博士のほか名だたる専門医下関送り、またフランス公使館付の医師招かれた。明治天皇昭憲皇后は、李鴻章見舞いのために侍従武官中村覚派遣し、とくに皇后御製繃帯届けている。原保太郎山口県知事はその責め負って知事辞任し山口県警察部後藤松吉郎もまた部長職を解任された。天皇による異例勅語も発せられた。日本側は、あらゆる手段講じて国際世論からの非難かわそう尽力したが、李鴻章またしたたかで、自身起こった災厄清国にとっての利益転換させよう図った。 この事件により李鴻章交渉席を蹴って帰国する怖れがないわけではなかった。講和交渉使節危害加えるような国で交渉継続は無理であるという説明は、世界中人々納得せしめるものであり、継戦は可能であるとはいえその場合、世界日本戦争不義戦いとみるであろうことが予想された。小松宮率いる征清軍が出征すれば、今度日本国内防衛する兵士不在となり、このことは各国公使本国報告していた。このとき、日本他国干渉に最も脆弱な状態にあったのである戦勝国民が講和使節殺害しようとする不祥事各国同情必ずや清国集まり第三国干渉を招く事態になること必至であると判断した陸奥外相は、即座に手を打ち、清がいま最も望んでいるはずの即時停戦日本側のリーダーシップによっていち速く実現すべきことを伊藤訴えた伊藤はこれを受けて反対する日本軍部を数日間でまとめ、かなり早い段階でこれを清に伝え李鴻章狙撃事件ダメージ最小限とどめることとした。とはいえ軍部無条件停戦に対して頑強に反対した。伊藤天皇をも動かして3月27日勅許得たまた、3ロシア軍清国北方移動するという軍事情報入ったことで山県有朋もようやく休戦同意したであったまた、ダン駐日アメリカ公使林董外務次官無条件停戦助言しており、はそれを陸奥報告していた。 李鴻章銃弾摘出手術断って交渉継続意思示したは、時間浪費許されない考え交渉終了後手術することに決めたであった。もし、李鴻章ロシア軍動いていることを知っていたならば、手術理由交渉引き延ばすことも考えられた。 3月28日日本側は休戦条約草案病床李鴻章提示したが、清側が「台湾澎湖列島およびその付近において交戦従事する所の遠征軍を除く他」の文面訂正求めたのに対し日本側は「日清帝国政府盛京省直隷省山東省地方に在て下に記する所の條項に従ひ両国海陸軍休戦約す」という文面変更することとし両者合意達し3月30日休戦条約締結され日本無条件で3週間即時休戦応じた

※この「下関での交渉と李鴻章狙撃事件」の解説は、「下関条約」の解説の一部です。
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