1885年-1926年、サルファー・デル 第1期
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「サルファー・デル」の記事における「1885年-1926年、サルファー・デル 第1期」の解説
1885年、マイナーリーグのナッシュビル・アメリカンズはサザン・リーグの創立メンバーとなった。これまでアスレチック・パークは単なる野球広場であったが、プロ野球チームに対応できる野球場への向上が要求された。150フット(46m)の木製観覧席が現在の4番通り北とジャクソン通りの角に建てられた。ジャクソン通りのメイン・エントランスには券売所があり、本塁バックネット裏の指定席に通じていた。選手、監督、得点記録係、報道関係者の部屋は客席下に作られた。うち2部屋からはワイヤー・スクリーン越しにフィールドが見えた。硫黄水の地下汲み上げ式のトイレや給水器も作られた。外野フェンスまでの距離はレフトおよびライトは362フィート(110m)、センターは485フィート(148m)であった。 シーズンのスタート前、ナッシュビル・アメリカンズはナショナルリーグのシカゴ・ホワイト・ストッキングスの3週間に亘るスプリングトレーニングを主催した。シカゴ・ホワイト・ストッキングスと地元セミプロ・チームのアメリカンズ、およびヴァンダービルト大学野球部コモドアズはエギシビション・ゲームを行なった。5月4日、コロンバス・スターズ戦で初めてのレギュラー・シーズンのホーム・ゲームを行ない、2対3で負けた。 この球場では他のスポーツ・イベントも行われた。外野の辺りに150ヤード(137m)の自転車または陸上競技用トラックが設置された。1885年の感謝祭、ナッシュビル初のフットボール・ゲームが行なわれた。ナッシュビル・フットボール・クラブがナッシュビル・アスレチック・クラブを6対4で敗した。 1886年、アメリカンズは次のシーズンを迎えたが、シーズン後リーグから後退した。19世紀、ナッシュビル・ブルース(1887年)、ナッシュビル・タイガース(1893年-1894年)、ナッシュビル・セラフズ(1895年)、ナッシュビル・センテニアルズ(1897年)が次々とアスレチック・パークのテナントとなった。1897年、三塁線の観客席の座席が入れ替えられた。1901年、新たに組織されたサザン・アソシエーションのナッシュビル・ヴォルズがこの球場を本拠地として活動を始めた。ヴォルズの最初のシーズンが始まる前、1.000席の特別観覧席が増設され、座席数は2,500席となった。1907年頃、セミ・プロのニグロリーグのナッシュビル・エリート・ジャイアンツ(のちのナッシュビル・スタンダード/エリート・ジャイアンツ)がアスレチック・パークで試合をするようになった。1928年までここで活動を続けたが、オーナーがトム・ウイルソン・パークを設立したため移動した。 1894年7月4日、ナッシュビルとメイコン・ホーネッツはアスレチック・パークでナイターを計画した。球場が電気照明を設置するのはずっと後のことであった。メジャーリーグが初めてナイターを行なったのはそれから約40年後の1935年であった。試合は雨により2回延期となったが、7月6日、トリプル・ヘッダーでニューオリンズ・ペリカンズと戦った。最初の2試合は昼間に行われ、ナイターはその夜に行われた。昼間の試合は互いに1勝1敗であった。その夜、ナイターのためにアスレチック・パークの周りに54個の電気照明が設置された。ボールは見やすいようにリンでカバーされた。ナイターのお楽しみとして選手は草のスカート、バレエの衣装、派手なスーツ、ボンネット、ドレスなどを着用した。当時ナイターはまだ珍しいものだったため、通常は数100名の観客が、この夜は4,000名も集まった。3対2でナッシュビルが勝利した。これがナッシュビル初のナイターとなった。その後の1931年にナッシュビル・ヴォルズがナイターを行なったことと混同されやすい。 1908年、『ナッシュビル・テネシアン』紙のスポーツ記者グラントランド・ライスは球場を「サルファー・スプリング・デル」と呼ぶようになった。同年、新たな観客席が追加された。彼はのちに短縮形の「サルファー・デル」と呼ぶようになり、1969年に取り壊されて以降もこの名前が定着した。 1920年、ジャクソン通り西と4番通り北の南に観客席が追加された。
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