イギリスの保護国化、領土の割譲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 08:13 UTC 版)
「シッキム王国」の記事における「イギリスの保護国化、領土の割譲」の解説
イギリス領インド帝国時代になると、ネパールがイギリスとシッキムにとって共通の敵とみなされた。イギリス東インド会社がネパールに侵攻したグルカ戦争(1814年 - 1816年)でスガウリ条約が結ばれ、ネパールはメチ川とティスタ川の間の地域を放棄した。その後、翌1815年にシッキムはイギリスとティタリヤ条約を締結し、ダージリンなどを含むティスタ川西岸全域がシッキムに譲渡されたが、同時にシッキムはイギリスの保護国となった。 その一方で、イギリスはチベットとの交易も模索し始め、シルクロードのあるシッキムはその中継点として理想的といえた。それは南下しつつあるロシア帝国がチベットとの関係を深めようとすることを牽制する意味があった。 1840年に隣国の清がアヘン戦争になると、緩衝地帯の西に位置するラダックに当時あったシク王国とチベットの間で清・シク戦争(1841年 - 1842年)が行われた。しかしその直後、イギリスとの間で第一次シク戦争(1845年 - 1846年)及び第二次シク戦争(1848年 - 1849年)が行われ、シク王国は滅亡し、ジャンムー・カシュミール藩王国が誕生した。 イギリスはシッキムに譲渡したダージリンの割譲を申し入れ、年額3000ルピーの補償金を払うことで合意し、1841年にその第一回の支払いが行われた。だが、宗主たるチベットはイギリスの帝国主義を警戒しており、ダージリンの割譲はチベットを激怒させる結果となった。チベットはイギリスと隣接する領域が西部だけでなく東部にもできることに脅威を感じていた。そのため、ツグプ王もしだいに反英的になった。 1849年、ツグプは首都トゥムロンに訪れたダージリン長官キャンベル博士、フッカー博士のイギリス人2名を逮捕、監禁した。イギリスは直ちに出兵し、ツグプは降伏を余儀なくされたが、その報復を受けた。王国はダージリン割譲の補償金を打ち切られたばかりか、タライ地方の大ランジット川とランマン川以南のシッキム領を没収され、現在のシッキム州の領域になった。 1860年、ダージリン居住民がシッキム人に拉致されると、イギリスはこの機会に本格的に出兵した。翌1861年にツグプ王は退位させられ、息子のシケオン・ナムゲルが王位を継承した。同年にシケオン王はイギリスとティタリヤ条約の締結を余儀なくさせられ、その国権をイギリスに委譲した。そのため、父の代に結ばれたティタリヤ条約で保護国となっていたシッキムは、さらにその従属性を強めた。また、同年には清朝との間でシッキムをイギリスの保護国とすることが定められた。 1866年、フランスによる雲南省経由通商路の調査がきっかけとなって、雲南問題で知られるイギリス、フランス、中国間の紛争が始まると、イギリスの主な関心はより豊かな雲南方面へと移っていき、シッキムに求められる役割はインド総督府の避暑地となった。
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