イギリスの偵察遠征とは? わかりやすく解説

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イギリスの偵察遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 10:25 UTC 版)

かんじきの戦い (1758年)」の記事における「イギリスの偵察遠征」の解説

1758年3月10日ロジャーズエドワード砦から、北のカリヨン砦に偵察任務のため派遣された。エドワード指揮官中佐、ウィリアム・ハヴィランドは、当初は兵400人の派遣計画していたが、180人に人数減らした。ところが、フランス軍は、この偵察気づいているのではないかといわれていた。フランスは、これより前に行われた、イスラエル・パットナムのコネチカット遠征で、イギリス兵を1人捕虜としており、その兵が、フランスイギリスの軍事計画について喋ったではないか懸念されていた。このパットナム遠征により、カリヨン砦の近くに、およそ600人のインディアン野営しているのが明らかになった。 遠征要員は、ロジャーズ・レンジャーズの兵が大部分占めていたが、第27歩兵連隊英語版)からの義勇兵何人混じっていた 。3月13日遠征隊はかんじきを履き、4フィート1.2メートル)の積雪の中を行軍した遠征隊の左手には小川右手にはジョージ湖があるはずだが、急勾配の山にさえぎられ見えなかった。3時間ほど休憩をとった時、前衛隊が何者かを発見していた。それは、ロジャーズ報告書に「96人の、ほとんどがインディアン」と記した者たちだった。 3月12日カリヨン砦の指揮官である、フランス軍大尉ルイ=フィリップ・ル・ドスー・デベクールは、近く野営しているインディアンたちからイギリス軍が近づいて来ているとの噂を耳にした。デベクールは、この情報応えて、デュランテ隊の、200人のニピシング族のインディアン20人の民兵派遣したが、何も見つからなかった。翌日2人インディアン斥候が、イギリス軍足跡発見した報告した3月13日正午ごろ、デュランテは100人の兵(この時もインディアン民兵混成であった)を連れて砦を発った。その少し後に、ランジ隊のインディアン200人がその後から進軍した。 この2つフランス合流軍のうち、デュランティエの軍は、ランジ軍よりも100ヤード91メートル先にいるところをロジャーズの兵に発見された。

※この「イギリスの偵察遠征」の解説は、「かんじきの戦い (1758年)」の解説の一部です。
「イギリスの偵察遠征」を含む「かんじきの戦い (1758年)」の記事については、「かんじきの戦い (1758年)」の概要を参照ください。

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