イギリスの偵察遠征
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「かんじきの戦い (1758年)」の記事における「イギリスの偵察遠征」の解説
1758年3月10日、ロジャーズはエドワード砦から、北のカリヨン砦に偵察任務のため派遣された。エドワード砦指揮官の中佐、ウィリアム・ハヴィランドは、当初は兵400人の派遣を計画していたが、180人に人数を減らした。ところが、フランス軍は、この偵察に気づいているのではないかといわれていた。フランスは、これより前に行われた、イスラエル・パットナムのコネチカット遠征で、イギリス兵を1人捕虜としており、その兵が、フランスにイギリスの軍事計画について喋ったのではないかと懸念されていた。このパットナムの遠征により、カリヨン砦の近くに、およそ600人のインディアンが野営しているのが明らかになった。 遠征要員は、ロジャーズ・レンジャーズの兵が大部分を占めていたが、第27歩兵連隊(英語版)からの義勇兵も何人か混じっていた 。3月13日、遠征隊はかんじきを履き、4フィート(1.2メートル)の積雪の中を行軍した。遠征隊の左手には小川、右手にはジョージ湖があるはずだが、急勾配の山にさえぎられて見えなかった。3時間ほど休憩をとった時、前衛隊が何者かを発見していた。それは、ロジャーズが報告書に「96人の、ほとんどがインディアン」と記した者たちだった。 3月12日、カリヨン砦の指揮官である、フランス軍大尉のルイ=フィリップ・ル・ドスー・デベクールは、近くに野営しているインディアンたちから、イギリス軍が近づいて来ているとの噂を耳にした。デベクールは、この情報に応えて、デュランテ隊の、200人のニピシング族のインディアンと20人の民兵を派遣したが、何も見つからなかった。翌日、2人のインディアンの斥候が、イギリス軍の足跡を発見したと報告した。3月13日の正午ごろ、デュランテは100人の兵(この時もインディアンと民兵の混成軍であった)を連れて砦を発った。その少し後に、ランジ隊のインディアン兵200人がその後から進軍した。 この2つのフランスの合流軍のうち、デュランティエの軍は、ランジ軍よりも100ヤード(91メートル)先にいるところを、ロジャーズの兵に発見された。
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