イギリスの偵察行動
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「かんじきの戦い (1757年)」の記事における「イギリスの偵察行動」の解説
1757年の冬、ロジャーズと2,3のレンジャー部隊は、ジョージ湖の南端にあるウィリアム・ヘンリー砦と、ハドソン川上流のエドワード砦に駐屯していた。この2つの砦は、イギリス領ニューヨーク植民地と、ヌーベルフランスの間の境界を形成しており、主に第44歩兵連隊(英語版)と第48歩兵連隊(英語版)の部隊によって守られていた。 指揮官のロジャーズは、1月15日にエドワード砦から偵察遠征隊を率いて出発し、ウィリアム・ヘンリー砦に立ち寄って、物資と、かんじきと、人員の補充を受けた。1月17日、総勢86人の遠征隊はウィリアム・ヘンリー砦を出発し、氷結したジョージ湖を目指した。翌日、12人が負傷で帰還したが、それ以外の兵は北へ進軍を続けた。1月21日、彼らはシャンプラン湖岸の、カリヨン砦とサンフレデリック砦の中間点に到着した。フランス軍がソリを湖上に滑らせ、セントフレデリック砦を目指しているのを見て、ロジャーズは大佐のジョン・スタークと何人かの兵に、彼らを迎え撃つように言った。しかし、湖上のソリはかなりの数で、しかも、スタークの兵が、森に退却する前に敵に見つかってしまった。ソリはカリヨン砦の方向に向かっていた。ロジャーズの遠征隊はソリを追ったものの、ほとんどのフランス兵に逃げられてしまったが、7人の兵を捕虜にすることに成功した。 ロジャーズは、捕虜のフランス兵から、フランスとインディアンの部隊がカリヨン砦に着いたばかりで、カリヨンとサンフレデリックの2つの砦で、正規兵が1,000人駐屯していることがわかった 。湖上を逃げて行ったそりの兵が、自分たちのことで警戒を強めているであろうとの懸念から、昨日野営したところに直ちに兵を戻した。ロジャーズと参謀たちは、ロジャーズの28の心得(英語版)に基づき、行きと同じ道を通って戻ることをよしとしなかったが、この時はそれを変更せざるを得なかった、急を要したのと、雪が深く積もっているためだった。午後早い時間に彼らは野営地に戻って、休息をとり、そして南に向かった。 ロジャーズが迎え撃った物資護送団の指揮官ルイイは、カリヨン砦に戻り、駐屯部隊の隊長であるポール=ルイ・ド・ルシニャンに警戒態勢を取らせた。ルシニャンの報告書によると、ラングドック連隊(英語版)の90人の正規兵と、90人の民兵およびインディアンを、大尉のバスロードの指揮の下送り出したとある。インディアン兵の大半はオタワ族で、彼らの指揮は、ブラドック遠征の際の指揮官の一人であったシャルル・ミシェル・ド・ランラードに委ねられていた。
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