イギリスの偵察行動とは? わかりやすく解説

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イギリスの偵察行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 10:24 UTC 版)

かんじきの戦い (1757年)」の記事における「イギリスの偵察行動」の解説

1757年の冬、ロジャーズ2,3レンジャー部隊は、ジョージ湖南端にあるウィリアム・ヘンリー砦と、ハドソン川上流エドワード砦に駐屯していた。この2つの砦は、イギリス領ニューヨーク植民地と、ヌーベルフランスの間の境界形成しており、主に第44歩兵連隊英語版)と第48歩兵連隊英語版)の部隊によって守られていた。 指揮官ロジャーズは、1月15日エドワード砦から偵察遠征隊を率いて出発しウィリアム・ヘンリー砦立ち寄って物資と、かんじきと、人員補充受けた1月17日総勢86人の遠征隊はウィリアム・ヘンリー砦出発し氷結したジョージ湖目指した。翌日12人が負傷帰還したが、それ以外の兵は北へ進軍続けた1月21日、彼らはシャンプラン湖岸の、カリヨン砦とサンフレデリック砦の中間点に到着したフランス軍ソリ湖上滑らせ、セントフレデリック砦を目指しているのを見てロジャーズ大佐ジョン・スターク何人かの兵に、彼らを迎え撃つように言った。しかし、湖上ソリかなりの数で、しかも、スタークの兵が、退却する前に敵に見つかってしまった。ソリカリヨン砦の方向向かっていた。ロジャーズ遠征隊はソリ追ったものの、ほとんどのフランス兵逃げられてしまったが、7人の兵を捕虜にすることに成功したロジャーズは、捕虜フランス兵から、フランスインディアン部隊カリヨン砦に着いたばかりで、カリヨンとサンフレデリックの2つの砦で、正規兵が1,000駐屯していることがわかった湖上逃げて行ったそりの兵が、自分たちのことで警戒強めているであろうとの懸念から、昨日野営したところに直ちに兵を戻したロジャーズ参謀たちは、ロジャーズ28心得英語版に基づき行きと同じ道を通って戻ることをよしとしなかったが、この時はそれを変更せざるを得なかった、急を要したのと、深く積もっているためだった午後早い時間に彼らは野営地戻って休息をとり、そして南に向かったロジャーズ迎え撃った物資護送団の指揮官ルイイは、カリヨン砦に戻り駐屯部隊隊長であるポール=ルイ・ド・ルシニャンに警戒態勢取らせた。ルシニャンの報告書によると、ラングドック連隊英語版)の90人の正規兵と、90人の民兵およびインディアンを、大尉のバスロードの指揮の下送り出したとある。インディアン兵の大半オタワ族で、彼らの指揮は、ブラドック遠征の際の指揮官一人であったシャルル・ミシェル・ド・ランラードに委ねられていた。

※この「イギリスの偵察行動」の解説は、「かんじきの戦い (1757年)」の解説の一部です。
「イギリスの偵察行動」を含む「かんじきの戦い (1757年)」の記事については、「かんじきの戦い (1757年)」の概要を参照ください。

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