イギリスの侵略活動とラーム・モーハン・ローイの派遣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 09:07 UTC 版)
「アクバル2世」の記事における「イギリスの侵略活動とラーム・モーハン・ローイの派遣」の解説
その一方、イギリスはインドの植民活動を進め、1817年11月から1818年6月にかけては、第三次マラーター戦争でマラーター同盟に勝利し、デカンの広大な領域を制圧するところとなり、インドの植民地化は急速に進んだ。 また、19世紀以降、イギリス東インド会社は彼らがインドにおいて発行している硬貨をペルシア語から英語に書き換え、皇帝の名も刻まなくなった。 そのうえ、イギリスはムガル帝国の権威を弱めるため、アワド太守とニザームに帝国から正式に独立するよう促し(どちらも事実上独立しただけであった)、その結果アワドは1818年に帝国から正式に独立してしまった。 アクバル2世はイギリスが自国の文化を押し付けるのを嫌い、19世紀にベンガルを中心に社会改革をしていた知識人ラーム・モーハン・ローイの活動を注目していたことも知られる。アクバル2世はラーム・モーハン・ローイに「ラージャ」の称号を与え、イギリスの横暴をヴィクトリア女王に訴えるべく、1830年からの渡英を依頼している。しかし、1833年9月27日にラーム・モーハン・ローイはイギリスのブリストルで死亡し、インドに戻ることはなかった。
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