スロバキアの自治に向けて(1938年-1939年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 07:12 UTC 版)
「スロバキアの歴史」の記事における「スロバキアの自治に向けて(1938年-1939年)」の解説
1938年9月、フランス、イタリア、イギリスとナチス・ドイツはミュンヘン会議で「ミュンヘン協定」を決定し、それによってチェコスロバキアはズデーデン地域として知られるドイツ人居住地域をドイツに割譲した。11月第1次ウィーン裁定によってイタリアとドイツはチェコスロバキア(のちのスロバキア)に南部スロバキアの主にハンガリー人が居住している地域をハンガリーに割譲するように強制した。10月にドイツがチェコとスロバキアの指導者へなされた「領土的要求はズデーデンだけ」という公式な宣言にもかかわらず実行された。 1939年3月14日、スロバキアは独立を宣言し、外交と徐々に内政もナチス・ドイツの影響下に入ることになる中欧の名目上の独立国になった。ヨゼフ・ティソは首相にのちに大統領になった。 3月15日、ナチス・ドイツはミュンヘン協定以降に残っていたボヘミア、モラビアとシレジアに侵攻した。ドイツ人はこの地域にベーメン・メーレン保護領として知られる保護領を設立した。同日に、カルパト・ウクライナは「カルパト・ウクライナ」として独立を宣言した。しかしハンガリーがすぐに侵攻しカルパト・ウクライナ共和国を併合した。3月23日には、ハンガリーはいまのスロバキア東部の領土とされる地域を占領した。これはスロバキア・ハンガリー戦争を引き起こした。
※この「スロバキアの自治に向けて(1938年-1939年)」の解説は、「スロバキアの歴史」の解説の一部です。
「スロバキアの自治に向けて(1938年-1939年)」を含む「スロバキアの歴史」の記事については、「スロバキアの歴史」の概要を参照ください。
- スロバキアの自治に向けてのページへのリンク