スロバキアの汎スラヴ主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 02:44 UTC 版)
「汎スラヴ主義」の記事における「スロバキアの汎スラヴ主義」の解説
汎スラヴ主義の先駆けとなったのはスロバキアにおけるパヴェル・ヨゼフ・シャファーリク(1795年-1861年)やヤーン・コラール(1793年-1852年)の運動であった。彼らは「汎スラヴ主義の父」とも呼ばれる。 しかしながらスロバキアで汎スラヴ主義が発展することはなかった。これはスロバキアでの汎スラヴ主義が、文化においても人口規模においても優位に立つ西の隣国、チェコおよびチェコ人への同化に繋がりかねないという懸念があったことが原因である。 チェコとスロバキアが一体であると主張する思想についてはチェコスロバキア主義を参照のこと。 汎スラブ主義の象徴的な歌である「スラブ人よ」も、詞はスロバキア人の手によって書かれたものである(曲は皮肉にも、多文化主義を掲げスラブ民族主義には同調しなかったポーランドが、のちの独立の際に自国の国歌としたナポレオン戦争時代のポーランドの戦争歌『ドンブロフスキのマズルカ』から)。
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