インド学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/18 16:43 UTC 版)
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インド学(インドがく)とは、インド亜大陸(具体的には現在のインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、モルディブ、ネパール、およびアフガニスタン東部)の歴史、文化、言語、文学の学術的研究を言い、東洋学の一分野をなす。
インド学(ドイツ語: Indologie)という言葉はしばしばドイツの学問とみなされ、ドイツおよび大陸ヨーロッパの大学ではインド学の名のついた学部が英語圏よりも一般的に見られる。オランダではかつて Indologie という言葉がオランダ領東インドの植民地経営のためのインドネシアの歴史・文化の学問を意味していた。
インド学の分野としてはとくにサンスクリット文学、ヒンドゥー教他の宗教(ジャイナ教、仏教とパーリ語文学、シーク教など)が含まれる。ドラヴィダ学 (Dravidology) は南インドのドラヴィダ語の言語・文学・文化に関する学術的研究をいう。
インド学を古典インド学と現代インド学に分ける学者もある。前者はサンスクリット他の古代語の文献に焦点があり、後者は現代のインドの政治や社会に焦点がある。
主要なインド学者の一覧
- アンクティル・デュペロン (1731-1805)
- ウィリアム・ジョーンズ (1746-1794)
- チャールズ・ウィルキンズ (1749-1836)
- ヘンリー・トーマス・コールブルック (1765-1837)
- アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル (1767-1845)
- アントワーヌ=レオナール・ド・シェジー (1773-1832)
- ホーラス・ヘイマン・ウィルソン (1786-1860)
- ジェームズ・プリンセプ (1799-1840)
- クリスチャン・ラッセン (1800-1876)
- ウジェーヌ・ビュルヌフ (1801-1852)
- アドルフ・フリードリヒ・シュテンツラー (1807-1887)
- テーオドール・ベンファイ (1809-1881)
- ロバート・コールドウェル (1814-1891)
- オットー・フォン・ベートリンク (1815-1904)
- モニエル・モニエル=ウィリアムズ (1819-1899)
- ルドルフ・フォン・ロート (1821-1895)
- ヴィゴ・ファウスベル (1821-1908)
- フリードリヒ・マックス・ミュラー (1823-1900)
- アルブレヒト・ヴェーバー (1825-1901)
- ウィリアム・ドワイト・ホイットニー (1827-1894)
- ゲオルク・ビューラー (1837-1898)
- トーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ (1843-1922)
- パウル・ドイセン (1845-1919)
- リヒャルト・ピシェル (1849-1908)
- 南条文雄 (1849-1927)
- ヘルマン・ヤコービ (1850-1937)
- ジョージ・エイブラハム・グリアソン (1851-1941)
- ヘルマン・オルデンベルク (1854-1920)
- アーサー・アンソニー・マクドネル (1854-1930)
- モーリス・ブルームフィールド (1855-1928)
- ヴィルヘルム・ガイガー (1856-1943)
- セルゲイ・オルデンブルク (1863-1934)
- シルヴァン・レヴィ (1863-1935)
- 高楠順次郎 (1866-1945)
- ステン・コノウ (1867-1948)
- ハインリヒ・リューダース (1869-1943)
- フランクリン・エジャートン (1885-1963)
- ハインリヒ・ツィンマー (1890-1943)
- マレー・バーンソン・エメノー (1904-2005)
- ヤン・ホンダ (1905-1991)[1]
- パウル・ティーメ (1905-2001)
- トーマス・バロー (1909-1986)
- 季羨林 (1911-2009)
脚注
- ^ 原實『ヤン・ホンダ選集、第六巻』、東洋学報 / The Toyo Gakuho 75(3・4), 01-07(432~438), 1994-03
インド学
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「ウジェーヌ・ビュルヌフ」の記事における「インド学」の解説
ビュルヌフはパーリ語を研究した。 Burnouf, Eugène; Lassen, Christian (1826). Essai sur le Pali, ou langue Sacrée de la presqu'ile au-deja du Gange. Paris. https://archive.org/details/bub_gb_3VDZnE0QUjkC. (クリスチャン・ラッセンと共著) Observations grammaticales sur quelques passages de l'essai sur le Pali. Paris. (1827). https://books.google.com/books?id=6iU-AAAAYAAJ&printsec=frontcover. 1840年以降、バーガヴァタ・プラーナ(英語版)の翻訳を出版した。 Le Bhâgavata purâṇa, ou histoire poétique de Krĭchṇa. 1. Paris. (1840). https://archive.org/details/lebhgavatapurna00unkngoog. 第2巻(1844) 第3巻(1847)(4巻と5巻は没後に Hauvette Besnault らにより翻訳) イギリス東インド会社のためにインドとネパールで働いていたブライアン・ホートン・ホジソンは、ネパールで多数のサンスクリット写本を得、1837年にパリに送った。ビュルヌフはその中に含まれていた『法華経』の写本を翻訳した。その後1845年に別な写本がホジソンから送られてきた。 1844年には大著『インド仏教史序説』を著した(第1巻のみ)。この著書は仏教に関するヨーロッパ初の学術的モノグラフだった。続巻の準備もしていたが、完成することなく没した。 Introduction à l'histoire du Buddhisme indien (2e ed.). Paris. (1876) [1844]. https://archive.org/details/introductionlh00burnuoft. 『法華経』訳注の出版には慎重であり、没後の1852年に門人のモールによって出版された。生前の1843年に第5章(薬草喩品に相当)のみが公刊されている。 Le lotus de la bonn loi. Paris. (1852). https://archive.org/details/bub_gb_P2BgMpST764C.
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