普仏戦争以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 07:00 UTC 版)
「ウジェニー・ド・モンティジョ」の記事における「普仏戦争以後」の解説
普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともにイギリスへと亡命し、ケント州のチズルハースト(英語版)に居住した。イギリスでは王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。皇帝の死(1873年)から12年後、彼女はハンプシャーのファーンバラ(英語版)にある別荘“Cyrnos”(古代ギリシア語でコルシカを意味する)に引っ越した(彼女は同じ名前の別荘を、かつてカンヌ近くのカプ=マルタン(Cap-Martin)に建てていた)。そこは彼女が、フランスの政治に一切干渉せずに余生を過ごした場所となった。 ウジェニーは1920年7月に死去した。94歳であった。アルバ公を訪ねてスペインのマドリードに滞在していた際の死であった。彼女はファーンバラの聖マイケル修道院(英語版)に、夫と、1879年に南アフリカのズールー戦争で戦死した息子ナポレオン・ウジェーヌともに埋葬された。 ウジェニーは様々な親戚に財産を遺した。彼女の不動産はアルバ家に嫁いだ姉の孫が相続した。ファーンバラの別荘は全てのコレクションともに、夫の従弟ナポレオン公の息子、「ナポレオン5世」ことナポレオン・ヴィクトル・ボナパルトが相続し、Cyrnos荘はさらにその妹レティティアに渡った。動産はランスの大聖堂再建委員会に譲渡された10万フランを除いて、近親者に与えられた。 ウジェニーの没落した家族の友好協会は、1887年にイギリスで、彼女がヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ(後にスペイン王アルフォンソ13世の妃になる)の代母になった時に結成された。バルモラル城で生まれたヴィクトリア・ユージェニーは、スコットランドの長老派教会の洗礼を受けていて、この洗礼は初期のエキュメニズムの例だった。1世紀後、1990年に生まれたヨーク公アンドルーの次女はユージェニーと命名された。 皇后は宇宙にも記念されている。小惑星ウージェニアは彼女にちなんで命名され、その衛星プティ・プランスは彼女の息子にちなんで命名された。
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