普化宗の廃止から新日本音楽まで
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「尺八」の記事における「普化宗の廃止から新日本音楽まで」の解説
普化宗は政府により1871年に解体され、虚無僧は尺八の師匠などに転じた。普化宗廃止後の尺八界の混乱期に活躍した人物に2代 荒木古童(竹翁、1823-1908)がいる。荒木は虚無僧修行中に琴古流豊田古童に師事し、普化宗廃止後も尺八の普及に尽力し、琴古流中興の祖となった。尺八の指孔位置や歌口を改良したことでも知られ、東京を中心に全国に普及させた。その門下である初代川瀬順輔(1870-1959)は近代尺八の祖のひとりと言われ、2代荒木古童や東京音楽学校教授の上原六四郎に師事し、1902年に東京で道場を開いた。 関西では、箏、三味線との合奏である三曲合奏(外曲とも称す)の先駆と言われる近藤宗悦(1821-1867)の宗悦流(現存せず)の中から初世中尾都山が1896年に大阪で都山流を創始した。中尾は独自の工夫新作により自流の曲目を増やし、記譜法、教授法、合奏形式などにも新機軸を打ち出し、近代的な家元制度を整えて短年月のうちに西日本で門弟を増やし、琴古流に並ぶ尺八界の二大流派のひとつに育てた。 1920年代には、箏曲家の宮城道雄と尺八家の吉田晴風(1891-1950)によって、洋楽の要素を取り入れた新しい邦楽を目指す新日本音楽運動が興り、音楽研究家の田辺尚雄,町田佳聲らも同調し、尺八では中尾都山、福田蘭童、野村景久らが参加して邦楽の近代化に寄与した。野村は新進気鋭の尺八奏者・作曲家として古賀正男はじめさまざまな音楽家との共演やラジオ出演、執筆などで注目されたが、1933年に一家四人を殺して金を奪う事件を起こして死刑となり、虚無僧の怪しさから来る悪いイメージを払拭し近代化を進めてきた尺八界を揺るがせ、かつて「法器」であった尺八の精神性を見直す気運を生んだ。
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