普仏戦争による遅延、そして初演
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:24 UTC 版)
「アイーダ」の記事における「普仏戦争による遅延、そして初演」の解説
上述のように『アイーダ』カイロ初演は当初1871年1月に予定されており、ヴェルディ側の準備は順調だった。しかし、1870年7月に勃発した普仏戦争が予期せぬ混乱をもたらした。カイロ初演のための舞台装置と衣装はすべて、一時帰国したマリエットの監修のもと、パリで製作されていたが、プロイセン軍によって同市はほぼ完全に包囲され、人手不足も加わって作業は大幅に遅延、完成した資材もマリエットもパリ脱出不能の状態となり、スケジュール通りの初演は不可能になった(ヴェルディ自身この危機的状況を、デュ・ロクルが包囲下のパリでしたため、気球に載せて送出した郵便で知った)。 このような事態では上述の契約上、ヴェルディが好みの歌劇場で初演を強行することも可能だったが、彼はイスマーイール・パシャの顔を立てる形で世界初演延期に同意、1871年2月に予定していたミラノ・スカラ座でのイタリア初演も1年の延期とした。 カイロでの初演は1871年12月に変更され、イスマーイール・パシャはヴェルディに初演への招待状を送った。ヴェルディは自作初演の際は出来る限り現地に赴いて初演を監督するようにしていたが、今回は先述通り初演への立ち会いはしないと契約時に明文化していたこと、また欧州各地の有名ジャーナリストたちも招待されていると知り、自分の来演が宣伝に利用されることを懸念したことや船旅を好まなかったことから、ヴェルディは初演には結局出席しなかった。 初演の前評判は上々で、エジプト貴族たちのみならず、欧州の上流階級からも多数の予約が舞い込み、本番の2週間前には入場券が完売し、イスマーイール・パシャは狂喜の電報をヴェルディに送ったと伝えられる。 1871年12月24日、カイロにて11か月遅れで行われた初演は、予想通りの大成功であった。もっとも、エジプトの一種の「国策」として委嘱された同オペラがカイロで失敗するという懸念はあまりなかったかも知れない。その頃ヴェルディは、彼自身より正念場ととらえていたスカラ座でのイタリア初演に集中する日々を送っていた。
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