普仏戦争とパリコミューンの乱―1870年–1871年
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「ガルニエ宮」の記事における「普仏戦争とパリコミューンの乱―1870年–1871年」の解説
普仏戦争のパリ包囲戦(1870年9月から1871年1月)のせいで、全ての建物建設作業が停止した。建設は進行したので建物の一部が食料倉庫と病院に使用することができた。フランスの降伏後、包囲戦の不自由からガルニエは深刻な病気にかかり、3月から6月まで治療のためにパリを離れて、イタリアのリグリア海岸へといった。その間、彼の助手のルイ・ルヴェ(Louis Louvet)は、パリコミューンの混乱の中パリにとどまった。ルヴェはガルニエに何通かの手紙を書いている。建物にかんする出来事も書かれている。建物の近くのヴァンドーム広場で戦闘が起きたので、国民衛兵はそこで露営し、防衛を担当し、兵士と市民に食料を補給していた。コミューンの首脳はガルニエを別の建築家に代える計画をたてた。しかし5月23日に共和国軍が国民衛兵を追い出して、建物を統制するようになったときには、この無名の男はまだ現れていなかった。5月末まで、コミューンはあちこちで敗北し続けた。第3共和政は秋までに盤石なものとなった。9月30日、建設作業は再開された。そして10月までに少額の資金が新しい議会によって今後の建設のために投じられた。
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