普仏戦争から1870年代初頭
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「エドゥアール・マネ」の記事における「普仏戦争から1870年代初頭」の解説
1870年7月、普仏戦争が勃発し、ナポレオン3世は9月にスダンでプロイセン軍に降伏した。マネは、プロイセン軍のパリ侵攻に備えて、家族をピレネー山脈のオロロン=サント=マリーに疎開させた。11月、国民軍に中尉として入隊し、首都防衛戦に加わったが、1871年1月、フランス軍はパリを包囲していたプロイセン軍に降伏し、開城した。マネは、2月、パリを去り、疎開していた家族と合流してパリに帰ろうとしたが、3月のパリ蜂起、パリ・コミューン成立と引き続く内戦によって足止めされ、5月の「血の1週間」でパリ・コミューンが鎮圧された頃にパリに戻ったと思われる。ベルト・モリゾの弟が、戦闘中のパリでマネとドガの2人連れを目撃したという記録がある。 普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息すると、ロンドンに難を逃れていたモネやピサロなど、「バティニョール派」の若い画家たちがパリに戻ってきた。モネは、パリ郊外のアルジャントゥイユにアトリエを構えたが、その借家を周旋したのは、セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネであった。マネや、ルノワール、シスレーらは、頻繁にモネのアトリエを訪れ、一緒に制作した。マネは、モネら若い画家から敬愛される一方、モネらの新しい手法からも影響を受けていった。 ロンドンでモネやピサロと知り合った画商ポール・デュラン=リュエルが、他のバティニョール派の画家たちにも興味を持つようになり、1872年にはマネの作品24点を購入した。 第三共和政の下で最初に行われた1872年のサロンには、マネは1864年制作の『キアサージ号とアラバマ号の海戦』を提出し、入選した。1873年のサロンには、『ル・ボン・ボック』と『休息(ベルト・モリゾの肖像)』が入選した。『ル・ボン・ボック』は、伝統的な表現手法による肖像画で、サロンでは好評だったが、バティニョール派からは評価されなかった。シルヴェストルは、マネの絵が大衆に少しずつ受け入れられつつあることを感じ、「マネはいまだ議論の場にいるものの、すでに困惑の対象ではない」と書いている。 マネとその仲間たちのたまり場は、1873年半ばころ、カフェ・ゲルボワから、マルスラン・デブータンに先導されるように、ピガール広場(英語版)のカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌに移っていったようである。そこには、カフェ・ゲルボワからの常連に加え、新しいメンバーも加わった。小説家ジョージ・ムーアは、カフェで隣り合って座るマネとドガだが、マネは明るさと率直さに満ちた性格で、芸術においては必ず自然に即して描くのに対し、ドガは目がきつく皮肉屋で、絵はデッサンと覚書から組み立てるなど、あらゆる点で対照的であったことを書き留めている。 『内戦』1871-73年。リトグラフ、39.4 ×50.5 cm。ブラントン美術館。 『休息(ベルト・モリゾの肖像)(フランス語版)』1871年頃。油彩、キャンバス、150.2 × 114 cm。ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン付設美術館。1873年サロン入選。 『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』1872年。油彩、キャンバス、55.5 × 40.5 cm。オルセー美術館。 『ル・ボン・ボック』1873年。油彩、キャンバス、94.6 × 83.3 cm。フィラデルフィア美術館。1873年サロン入選。
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